複雑で答えの見えないゲームにどれくらい付き合えるか

ゲームって単純だと最適解が求まるけど、複雑肥大化すればルール理解度が試される。

麻雀のルールは複雑で、反則のことをチョンボと呼んで罰則8000点である。

例えば1000点50円だと反則で400円になるわけで、雀荘の場代が1時間280円なら1時間イーブンのゲームをするより反則1回のほうが高い。麻雀で「ルールを教えてやる」と誘われて罰金を取られながらルールを覚えて先に反則で損した点を覚えたルールで取り返そうとするのがズルズル行くパターンだろう。ルール本は680円くらいだろうか。本を読んで先にルールを覚えて、慣れない人を誘って教えてお金を取るのだ。

ギルティギアも単純な格闘ゲームに色々の味付けでルールを複雑肥大化させて、さらにスピード感もあって知識の差に上手下手の差が駆け引き強さとかずる賢さみたいなものを超えるように作られたゲームなのかもな。麻雀だって牌に掘られた絵の彩りに取り憑かれるところから始まる。玩具の中で麻雀牌は高級品に分類される。

俺は格闘ゲームの行き着く先はジャンケンだと持論にしていて、ストIIとかバーチャとかならジャンケンになるかもだけど、ギルティギアは反対に駆け引きの終着点までの道のりが手順ゲームとして面白い作品なんだろうな。前ジャンプフォルトレスガードの対処法が分からないといっときは思ったけど、テンションゲージの損になるからダッシュでくぐればテンション得になる。飛び越したり潜ったりを繰り返してゲージに差をつけ、ストIIなら半丁バクチである投げと昇竜をロマキャンで一方的に仕掛けるチャンスを作り、こちらは体力ゲージでなくテンションゲージを賭けてバクチを仕掛けて成功したらコンボで体力をさらに奪う。

そこまで考えていったら、まだまだアクセル・ロウでも勝てるかなと思うようになってきた。昔の俺は格闘ゲームは読み合いの心理戦で、人間科学で相手の心理を読むものだと思っていたし、それでかじった心理学やスポーツ科学の知識体系に触れて受け売りから独自の論理展開をして、それらが最初はネットで広まるのが楽しかったけど、いつしか自分の手を離れて話が独り歩きして誰が言い出したのかも知られなくなった

それを俺はなんとなく自分で読んだ本の知識がネットに溶け出したみたいで損した気分になったけど、本当のばくち打ちは反対に有利なバクチの打ち方を隠すために間違った論理である「読み合い」を世間に流布して、確率ゲームをしていたのではないかとも思えるんだ。ちょうど生臭坊主が真面目に修行しないで殺生はいけないと人に説きながら自分たちは肉や魚を食っているのと同じこと。

だけど、世の中の坊さんが全部そうではなく修行や勉強を熱心にする人もいる。悪い人も良い人も楽しみも企みも全部ないまぜにゲームのことを考えてきて、すり合わせて、悔い改めて、やがて正しい論理に辿り着いたんじゃないかなと近頃じゃ思う。

ただ、麻雀というゲームに強くなったら今度はそれはバクチですと警察に突き出し合うゲームにいつの間にか変わっていたりして。ミイラ取りがミイラになっちまったのか。

それもまたヴァンパイアのアナカリスで既に暗喩されていたことなのかも知れない。