説得力のある本には気をつけなければならない

世の中、なかなか聞き得な話や読み得な話はないものである。

しかし反対に説得力のある本というのは簡単に手にできる。

説いて得なのは言葉を発したほうか受け取った人か。

 

20代の頃にツイていないなぁと思っていた。

その頃に読んだ小説の登場人物のセリフにこんなものがあった。

「大学に来るまでの道に信号が無数にあるが、全て青で通ってきた」

「それは運がいいですね」

「全て3分の1で概算すると10個あったから3の10乗でおよそ5万分の1」

「それが概算ですか?それってすごく運がいいですよね」

「そう思うかも知れない。しかしいま目の前の信号が青ならば通り過ぎてるよう早足に、赤ならば変わるまで着かないようゆっくりに歩くことだって出来る。そういうことだよ」

おおよそ、こんな内容だった。

 

俺はその日から考え方をあらためた。

こんなに読み得な話は無いと思ったものだ。

自分も賢くなったと錯覚した。

 

 

20年くらい、俺は「そういう考え方」で世の中を見てきた。

信号は全ての人に等しく交通整理のために割り振られており、その中で運良を競う。

ゲームだったり賭け事も元来そこまで強くないので分かるまで考えてから挑む。

会社員になって定年まで40年同じくらいになるのかと絶望した通勤電車の中で、1冊との本の中のほんの1節。それとの出会いが俺の人生を大きく狂わせる始まりだった。

ある意味で悪運は付いたとも言える。ギャンブルでもゲームでも勝つ側に回った。

 

では何を失ったか。

それは信号が赤の交差点で待つという辛抱強さ。少しのことだけど辛抱すれば片付く。

定年まで勤め上げる辛抱強さや自己管理能力のようなものが少しずつ崩れていった。

 

種を明かすようだけど、信号は管制されていて、例えば天皇陛下のパレードなら通り道が全て青で周りはすべて赤というようなことになるだろう。押しボタン信号や定時変化の信号でも有事となると管制される。それを知っているにも関わらず、普段は3分の1とか2分の1である、自分は特別な人ではなく等しく降り掛かっている運を2分の1ずつしか受け取れないような「さだめ」を赤信号の運の悪さに受け止めていた。

 

だが、こう考えたらどうだろう。もしとても傲慢な人がいて、自分が青信号を渡っているのに赤信号の交差点から猛スピードで突っ込んできて事故で死んだら。それと比べたら、赤信号に捕まって足止めを食らって、たとえそれで会社に遅刻してクビになって職まで失うくらいの連鎖反応が起きたとして、命は大丈夫なのである。

 

ある時の俺は恐ろしいほどたくさんの信号を運良くというか計算どおりに青信号で抜けてきた。赤信号での足止め時間の差からすると、かなりの差分になるだろう。

 

だが、ふと間違いに気づいたのだ。確かに赤信号の不運は避けてきた。だが、俺に人生本当に信号待ちくらいの不快を避け続けるだけで、もっと大きな獲物を逃していないかと。ただただ周囲の善意に甘えて辛抱の足りない人生を送ってきただけなのかもな。