麻雀と呪術の関係を考える

科学ブームの世紀に生まれた俺なので、子供の頃に相応に感じる不思議とそれを取り囲む魔法読み物を好みながらも非科学的で子供じみているという周囲からの批判に子供なりに心を痛めていた。

科学万能主義もまた、非科学的な宗教のような騙しである。ガリレオガリレイが抹殺されたように、科学の限界を知り科学的ということの真の意味は現象に対する学者間での合意でしか無い、ということを語る学者は科学万能主義者に抹殺された。

しかし、科学万能主義の衰退と歴史研究によって魔法は古典科学とでも呼びうる知識の総体であると復権の様相に見受けられる。単に理科の学力が低下してオカルト的な思想が蔓延しているだけかも知れないけど。中世でも教会が力を持って神の力を信じていた民衆は直せない疫病の流行で信心を失い、その頃に黒魔術が復権したのだとか。

まあ、俺が魔法に興味を持っているのはイタズラに使えたら面白そうという好奇心からなのであるが、元はと言うと娯楽読み物である中世ヨーロッパを舞台とした剣と魔法の物語から魔法の背景となった中世史を高校の世界史の中でも好んで掘り下げたという経緯があるのだけど、じゃあヨーロッパの中世に魔法があったのなら日本の古代にはとか中国の歴史の中に魔法に相当するものは何だろうとなった時に、ふと賭け麻雀はお小遣いを稼ぐために使われる儀式的な手続きであると考えるようになった。

普通に「お金頂戴」と言ってくれる人もいるかもだが、いないかもだ。いないかもだが「賭けよう、面白いゲームがある」と麻雀に誘ってレートを決めて手続きをして、こうこうこういう事情で君は負けたから点数分のお金を払う義務がある、というようなことを飲ませると、のぞんでではないかもだが、渋々ながらお金を払ってしまうのである。この時に踏み倒しても、心にしこりが残る人がいて、その作用をもって心理的優位にたつことだって考えられる。

この一連の手続きは現在では商取引や詐欺に応用されているが、まさに呪術のそれと極めて似ているところがあるように思えるんだ。麻雀に強くなると、誰かに試してお小遣いを稼いでみたくなるというのも奇術の手品を覚えて誰かを驚かせてみたいという魔術の入門と近しい。

現代では医術的な人体実験は禁止されているから、闇で人体実験が成されたかも知れない古典の医術書が魔術書のように密かに存在するかも知れないというオカルティックなワクワク感が、もしかしたら麻雀の歴史を紐解くと中華な秘術が手に入るかも知れないみたいな変なワクワク感になって、だからどうしたということはないけど、誰かと麻雀をしたくなる。いつどこで誰とと言うことを綿密にホットリーディングすると劇場型詐欺になるし、どちらかと言うと訓練を積まないとコールドリーディングされてしまうかも知れないという危機感もまた同時にある。

確率ばかりがデジタルとは限らない。最近のコンピュータ技師は麻雀のオカルトもまたコンピュータ科学の延長で解析してしまうとカッコいいんだけど、それはまだ。