大晦日

読書量の多い人でも少ない人でも、ほとんどの人が買って持っているのに全部は読んでいない本がある。

それは辞書。

かく云う俺も全部は読んでいない。

晦日と引くと年の最後の日なのであるが、では「みそか」を引くと「三十日」でみそかと読む。俺が小学校で習った読みだと「さんじゅうにち」だった。

母親は田舎の農家の出身で、俺に「みそかやで」と発音する時、恐らく母親の頭の中では「三十日やで」という文字があったんだろうなと思う。親父は学校で習ったとおりのタイプだったので、俺と話が通じた。俺は両親の仲を考える時にいちどは結婚したから相性は良かったのかもと思ったが、離婚こそしていないものの別居が続き、俺としては親父が死んだらそのまま離婚をしていないと相続権は母親に優先されることを心配しているのだが、そう考えると母親は俺や親父をだましていることになる。

あるいは、俺は親父がカネをちらつかせて母親を「買った」とも考えていたが、結婚後の暮らしに置いてお金をよく使うのは母親であり、俺には貧しい食事と季節に二着くらいの服しか与えず、自分は高価なブランド物を身にまとい、別の男を作って家のカネを持ち出してなんて女だとおもっていたものだが、俺は親父と話が通じて母親と話が通じないので子供の頃には母親は話しても無駄な馬鹿な人と思っていたものだ。

しかし「みそか」のように母親には田舎言葉に残る古文での世界理解があり、大量歴でなく月歴でものごとを考え、インモラルに思えることでも損得勘定がそれを上回るという意味で計算のできる人なのだなと分かる。たとえば犯罪者は普通の人の輪では生きていけないが、罪を犯して利を得て服役などして出所してから他の街に引っ越せば差し引きで労働を我慢するより効率よく金が稼げる、みたいなヤクザの計算と同じこと。

monthの語源がmoonであるなら、洋の東西は違っても三十日間をひと月と呼ぶのは変わらない。厳密さで表される思考があるなら、曖昧さでつながる感情もまた人としての感性のあり方のひとつなのだろう。

父さんがくれた熱い想い、母さんがくれたあの眼差し。ラピュタはまだ両親と一緒に暮らしている時に居間のテレビで見たものだったな。不仲の原因は今では言葉の違いによる疎通性の無さだと思っている。奈良の街の親父と滋賀の田舎の母が金の卵を産む鶏として名古屋の工場で働かされて出会って結婚して子供が出来て爺さんの俺が今住むこの家に戻ってきたことは辛うじて知っている。

しかし、街の移り変わりもあり、近所も不仲でどんな考え方を持ってすれば今住む柳町と言う地域でやっていけるのかは分からない。お金があって、近所にスーパーがあるから食事や日用品を買って暮らせるだけである。テレビを見るかゲームをするか本を読むかパソコンに打ち込む以外に俺には何の仕事も見いだせない。就職するということは出稼ぎや身売りを意味する。

パパとママを父と母と呼ぶように学校であらためられ、卒業して就職してマンションに移り住んで家を出るまで母はこの家で待ったのだ。親父はどういう風にか外から金を集めてくる。外で何をしてお金を取ってきているのか、子供の頃は知らなかったし、今でも全く継いではいない。

今年は待った。丸1年を家からほとんど出ず、電車や車も殆ど使わず、食事以外の買い物もあまりせず、服は擦り切れたものを新調しただけで、どうせなら裁縫でもしようかと思ったほどである。そうだな、裁縫なら仕事になるかもしれないな。

パソコン関係の仕事をしても金勘定は経理が握っていて、組み込み以外の仕事はさせてもらえない。勤め先の社長がそうであったように独立開業しても大阪や京都まで己が身を運ばないとお金をいただけないのだ。もらってきて、持って帰る。そうでなく、自分のところにお金が集まってくるようにしたい。

テレビで見た神戸の街は地震が嘘であったかのように復興した。だが、俺の住む柳町はどうだろう。時代に取り残されたように古い町家が残っているが、京都のように栄えているわけでもない。俺自身、人混みは避けるように過ごしているので自分の町が栄えたらとは思わない。お祭りの日でも部屋にこもっている。

まあ、雀の涙ほどであったブログ収入は今年の売上で雀1匹買って焼いて食えるほどにはなった。シェアウェア販売の売上も年末に振り込まれた。

親父が元気なうちに、軌道に乗ってそれだけで食っていけるようになれば良いのだが。

安心はさせられていない。そんな今年の大晦日


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