自己矛盾の解消のために無関係な他者の板挟みになる

俺は矛盾ってあって良いと思うんですよね。

論理的には矛盾しているように見えても、ちょっとした時間軸のズレで同時に起こることってあると思うんですよ。デカルトの時代には形式論理学が重んじられて、科学的は論理的を含むので、非論理的なものは即ち非科学的で偽であるとされがちだけど。

コップを持ちながら「僕はコップを持っています」と言う。このセリフの間の「コップを」くらいでコップをテーブルに置いて「僕はコップを持っていません」と言うと、それはつまり、「僕はコップを持ちながら『僕はコップを』と言ってテーブルに置いてから『持っていません』と言いました」ってことなんだけど、科学はその発展段階に置いて静止的で、時間を伴う変化の科学になると言葉にすると難解で長文になるけど、例えば材木を秤で正確に量ろうとすると止まって言うように見える針の先は微小に揺れ続けて水分が乾いていくから重さは厳密には常に変わり続けるらしいんですね。乾ききったら今度は反対に空気中の水蒸気を吸い始めるわけだし。

そうなってくると定量的や定性的に思えるものでもミクロでは流動性があって、範囲に収まっているということが真理というか人間理解の限界になったりするんですよ。人間理解と言うか、決定観測数とでも言ったほうが良いんでしょうか。まあ、金属ならかなり安定しているけど、鉄でもミクロになると微小に錆び続けるわけだし。

そうなると人間なんてのは計り知れないわけで。ある時はそうであったことが別の時間では違ったみたいなことは幾らでも起こりうる。けど、そこまで理解できない人が微小のすれ違いを対立軸のある矛盾であると頑張ってしまうと、その誤解を解くのってなかなかに面倒なんですよね。ミクロ的には無矛盾でも、少しぼやけると矛盾に見えることを主観的に矛盾と捉えているわけだから、論理性はあっても客観性が無いことを指摘すれば相手の非科学を突けるのかも知れませんね。

 

それで何を言いたいかと言うと、セガサターン怒首領蜂を久々に遊んで5面まで行って死んだんですけど、俺はゲーセンで「解いたことがある」と言って「じゃあもっぺんやってみて」となった時に死んでしまって、そこで即座に「ウソツキだ」みたいに糾弾されたんですけど、そこに「調子の善し悪しがあって」などと言うと、もっと安定的に毎回解けるシューターを引き合いに出されて、それを最近グーグルで「A級シューター 練習時間」とググると毎日丸1日ゲームの生活を4ヶ月ぶっ通しでする人の話とかが出てきて、そんな人を引き合いに出して比べられてもなぁと疲れた感じが体から抜けなくて。

 

「あんなんパターン覚えるだけやろ」と高を括っている人に「お前できんのかよ?やってみろ!」と出るから「やってみろ」とオウム返しされてるのかも知れないんですけどね。やってみてるのを傍から見ても上手に避けるか下手に死ぬか程度にしか分からないと思うんですけど、4面ボスの水色8方向弾のあとのピンク5方向弾を避けるのとかでもノッている時は反射神経で避けれても、8方向弾を被弾方向で待機して5方向弾を撃たせてから同じ角度で避ける避け方とか、まず8方向弾をかわして内側に入ってからあらためて5方向弾を避けるとか、パターンの安定性と取捨選択と、その時の気合の入り方と慣れと、レバーを持つ手の器用さとか、本当に色々のパラメータがあるんですよね。

 

確実にクリアできるように成れる前に、ギターやピアノを練習したら先に1曲弾けるようになった、みたいな俺のエピソードがあるんですけど。怒首領蜂という他に大往生やエスプガルーダくらいにしか役に立たないピーキーな能力を切り捨てずにキッチリ自分のモノにしたいってどこかで願ってるんです。その願いもまた確固としたものでなく俺の心にそういうものがよぎることがあるという程度の話なんですけどね。

 

スゲー集中してプレイするから、挑むたびに疲れがどっと出るんですよ。俺は遊びとしてシューティングをしてたけど、時々言われる嫌味が心に刺さって、見返すために義務感を持って記録に挑んだりするんだけど、そんなことに拘ることをさらにバカにされるという悪循環から、今日も精神安定剤を頓服薬で余分にひとつ飲んだのでした。