「超える」思想。なぜ1番の人と同じことをするだけではいけないか

すごく手前味噌ではあるけど、俺はスーファミの「重装騎兵ヴァルケン」の全国1位ハイスコアを記録している。ストIIXのXケン200万点とか、マヴカプ2のギネス記録も抜いている。

セガサターン怒首領蜂でもサターンモードで2億超えを記録したが、これが全国的にどの程度の記録であるのかは比べるすべがなく、ネットで写真を公開して自慢したら他にそれを超える自慢をしてくる人にはまだ出会ってない。だが、アーケードモードつまりゲーセン版での記録は負けており、その差分について上がいることも分かっている。

「そういうものは先にみんなで競争させて1番が決まってからその人を真似れば良い」という考え方に出会う。特にスコアに興味のない方にその傾向は顕著で、奈良学園にいた頃は皆個性的で楽しかったが、専門学校に進学してみるとプログラムの課題など、いちばんに出来た人のコピーを取って提出すればいいと考える人に囲まれた。学生だけでなく、講師すらそれを黙認していた。

学校の授業のレベルの低さに不満を感じている学生と5人ほどのグループを作って、いつもその輪で遊んでいた。

中学の頃、同級生の内田の兄ちゃんがF-ZERO日本記録を持っていると知った。内田は「兄貴キモい」とか「お兄ちゃんと取り合いになるからおじいちゃんにゲーム機2台買ってもらった」などと話していたが、俺は学校帰りに寄ったゲーセンで2年先輩の内田兄のグループに巻き込まれ、実害としてゲームボーイタートルズを借りパクされるカツアゲのようなものに出会ったが、そのことを黙って諦めると、ゲームでいちばんを目指すグループがいかなるものかということを学べた。

内田の兄ちゃんは俺の家にも遊びに来て、F-ZEROの腕を披露してくれた。そして、1分59秒台でタイムを出す直前でポーズボタンでゲームを止め、電源を切った。「あー、それゴールしちゃったらに日本記録じゃないんですか?」と言うと「それやったらお前がおもんなくなるやろ?」と言った。

俺は今でこそ家にこもってテレビゲームをしてネットでそれを公開したり語ったりということをしているが、トップグループで集まるということは何も知らないところからトップに近づくまでに必要な9割のことは皆出来ていて、そのなかで腕を競い互いの動きを観察しあって、お互いに足りないと思うところを補い合って自分たちの中でのいちばんを認め合う。

だが、そういうグループを抜けて20年なり30年経ってみると、誰か別のグループに競争をさせてコッソリいちばんを見つけてそれになりすまして成り代わろうとする犯罪者のような人が、まるでいちばんであったかのように周囲から承認されているという現実にも出会った。奈良学園は男子校国語算数理科が受験科目で社会科に弱く理系思考であり、科学が全てだと思っている人が多いが、小学校で習う歴史の武将の豊臣秀吉がいかにして織田信長のあとに将軍になったかというと、まさにそうしてなったのである。

いちばんを競い合うというのは戦国の乱世で、武将同士で決し合うのだが、いざ戦争が終わって民が将軍をいかなる存在か知る頃にはおぼろげな輪郭が浮かび上がるのみで、実際に何が起こったのかくまなく知るものなど歴史研究家のみになる。

今朝から百田尚樹の話で「奈良京都に原爆が落とされなかったのは文化を守るため、というのはアメリカが後から作った筋が俗説化したもので、原爆投下前の7月には標的に含まれていたがやっちまうと戦後に日本人が恨みから左傾化することも危惧していた」みたいな話を読んではてなブックマークしようとすると「またそんな風にネットで読んだ記事をすぐ鵜呑みにしてー」と馬鹿にする人も目に浮かぶのだが、自分がずっとあれこれ考えたことから「どういうキーワードで検索するか」と考えて、その疑問の角度にピッタリハマる解答が時代に乗っている人の穿った見方でなるほどなと思ったから、感動したんだけど、分かってもらえないかなぁ。

それから「啓蒙思想はいかにして終わったか」などの検索で、俺は小学校の頃に親が本をいっぱい買ってくれたから楽しく勉強して中学受験も難なく乗り越えたんだけど、中学くらいから本を自分で選ぶようになって、上手く行かなくなった。小学校向けの読み物は百科全書的で知的好奇心をくすぶられるけど、高校くらいまで進むと博物学的よりも数学計算ばっかりで、既に精神は蝕まれ、世界史の教科書を読んでも家と学校を往復するだけの生活に外国など本当に俺の人生に関係あるのかというような、テレビで見たアメリカが誰かが作った幻影のようなもので学校と家以外の実存を疑うようになっていた。

しかし「ストリートファイターの大会」という馬鹿げた名目でアメリカ遠征ツアーも経験して、飛行機に乗って帰ってきてからはアメリカという大国がいかに出来上がったかなどの中近代史も興味を持ち、ネット検索で読む活字が生きた想像を伴うのだけれど「またそんな眉唾もののネット記事を」と避難する人の頭にはたぶんテレビで見た以上のアメリカの景色も無くて、活字はコンピュータの認識する文字列と同程度の価値しか見出されていないのだろうとも俺のほうが分かるべきだったな。

江戸時代の前の時代にいちど将軍になるだけなら豊臣秀吉で1回成れるんだけど、そのあと家康が江戸を作って近現代に至るまでって、学校じゃ総理大臣が何したかを年表で学ぶにとどまっているから、それをくまなく知っているわけでもない俺が「いちばんが欲しかったらいちばんのマネをして同じになるだけでは同立2位である」みたいな論をぶちかましても、オリンピアまで歴史をさかのぼっているだけで、大した思想ではないのかもしれない。当人以外の99%の人間がトップの交代は同じであれば良いと考えているなら、誰であろうと真似であろうと後を継げばそれで良いかも知れない。

俺の思想は「超える」を目標にしているが、スコアという指標でなく、国民が豊かにとか世界が平和にということを第一義に捉えるなら、やっていることが競争というのはどこか貧しいと思う人がいても不思議ではないという。