原始社会における愛

何不自由ない暮らしではあるが、風呂と洗濯が面倒になり部屋干し臭などニオイがついているらしく外出して他人から「くさい」と言われ、気になって外出を控えるようにして引きこもりだからまた風呂面倒という悪循環のスパイラルにハマる。

そんなとき、風呂に入ると全て解決するのだが冬で用意が寒い。うちは古い家で風呂のある建物が寝室のある建物と離れていて、いちど寒い目に合わないと風呂に入れない。病気の治療で飲んでいる薬の副作用で何もかもが面倒に感じ、ふと仰向けに寝て「死にたい」と思ってしまうことがある。

何とかパソコン机に向かい、ブログを書くのにブラウザを開くと、ふと自分はフロイト的に精神分析をして、幼少期は親の愛情を受け成長期に受験勉強を強いられた反発から親が嫌いになり、ひとたび自立してからひとり住まいで病気になり月並みに親のありがたさが分かって、実家に帰ってまた親父とふたりで暮らしている。

この幼少期に注がれる愛情から結婚して子供が出来たら自分もまた子供に愛情を注げるか、育児放棄などのニュースを見ていると自分は大丈夫と言い切れないときもある。嫁さんが大丈夫な人であることに期待するしか無い。その生命と愛情の関係はいったい歴史をさかのぼって古代のいつからあるのだろうと「原始社会における愛」というキーワードでググったら、ドーキンスの本を引用した論文が3つほど引っかかって流し読む。

論文は社会学のものから読み始めたが、生物的に自己増殖から交配に進化する過程で相手を求める作用が発生しているという話がいちばん腑に落ちた。

もはや地球上は人間だらけで増殖をこれ以上進める余地が無いことを理性的に分かっていて、避妊とかの判断をするわけで、創価学会の人が外部の人を勧誘する時に最初は勤行すれば功徳が出ると教わり、いつの間にか勧誘すると功徳が出るとか選挙活動をすると功徳が出るという幹部の嘘にだまされていて、ふと勧誘すると功徳がでるというなら増えているうちは良いが世界中の人が創価学会になったら最後に勧誘された人は功徳の出しようが無いんじゃないですか?とネズミ講マルチ商法を看破するように言ってみたら「そうですねぇ、もしそうなったらそれが僕たちの理想社会じゃないですか?僕はそう思うんです」と返され、その時は腑に落ちなかったが、いま人間の生きる意味が交配増殖による遺伝子の保存であったのなら、地球上を埋め尽くす増殖の先には減衰と自然管理による理性的な個の保存の段階に入っている。実はもう結構前からこの島国ではそうだったのではないかとすら思えてくる。

俺も先に書いたように受験期には親に反発したし生きることを苦痛に感じていたけど、アメリカに言った時に広大な自然に触れると生きる意味を思い出したような気がした。その時はストリートファイターの大会で行ったから、ゲームをすることとそれを通じて人種の違う人と交流することで生きる意味を見出したと思ってたんだけど、飛行機に乗って大陸に行って何もない自然の広がる景色を車の窓から見て心が洗われたことのほうが記してこそいなかったが重要なことだったのかも知れない。

帰国したときに成田で下を向いて歩く人の群れに交じる時、何か絶望を感じた。

今はあのときよりも希望があると思う。死にたいと思っても、自分の手で自分の首を絞めてみて、苦しくなって咳き込んでいると近所の人が咳を聞き付けて「コロナウイルスにでもかかったか?」と心配してくれて「いやいや」と返すと落ち着いた。

ひょっとすると、アメーバの時代にも地球上の海はアメーバのようなもので満たされていたかも知れないから、種の保存が分裂による増殖のみを目指すのは太古の時代に終わっていて、増殖の行き場のないところで進化と個性を持ったとしたら。いよいよますます今まで信じていたことなどほとんどが間違いで、何かぜんぜん違うことなのかもなと思えてくる。そういう知的好奇心みたいのが蘇るとまた子供っぽく生きていける。