ときどき「人生の意味」とか漠然としたことを検索する癖があって

順番に出てきたブログ記事をなんとなく読み進める過保護のカホコ的な時間を過ごすのですが。だいたい、そういう漠然としたものごとの考え方をしているからハッキリ分からないのだと思っていて、哲学よりは生物とか医学を学べるならそっちに時間を割いたほうが良いと思っていた時期もあって、進化論から生物が進化の過程で生存のために脳が発達したけど、とりわけ人類は発達した脳を生存のためにフル稼働させなくても余る時代になって、そこで考え事というのは後天的なものであり、生きている間に感じることを内観的に意味だと捉えているだけである。といのが持論だった。

そうとは思っていても、ときどき退屈して、その内観的意味を追求したくなるのです。そうすると、読み勧めていく内に仏教の「独生独死独去独来」という、人はひとり生まれてひとり死に、ひとりで来てひとり去ってゆくという話に出会うのですが、ふと25歳でいちど親父が「変な会社で働いて家をホテルみたいに使いやがって!もう出て行け!」といったところで貯金を持って大阪のマンションに住み始めたあと、寂しくなって新聞の集金のおばちゃんに「うちにいちど遊びにおいで」と言われ訪ねてカレーラスをごちそうになって創価学会に勧誘されたことを思い出したんですね。

創価学会が仏教に含まれるかはさておき、何らかの事情で孤独になった人に付け込んで独りなのだと説いているに過ぎないんですよ。日本人は基本的に家庭で育ちますから、お母さんから生まれてきて、両親と共に暮らし時には祖父母もいて、しかし家庭不和や自立など何らかの事情で孤立した人を宗教家は狙っているとでもいうか。

俺は両親が絵本の読み聞かせなどをしてくれて、幼稚園くらいから字が読めて計算もできたから小学校の最初の方は退屈だったんですけど、義務教育がもしなくて、親から読み書きを教えられず、仏教ならお寺でキリスト教なら教会でお経や聖書で文字を覚えたと言うような人がいたら、釈迦やキリストの教えを論理的客観的に読み抜いて論破するなんてことはとても出来ないと思うんですよね。もちろん義務教育それ自体も。