責任論の家庭学

俺が子供の得に宮澤家は毎日が口喧嘩の日々でした。

だいたい、おじいちゃんがNHKは受信料を払っているから見ないと損だといつもテレビをNHKにしていまいた。お父さんは面白い民放を見るのが好きで、自営業で店はあるものの店の裏側が座敷になっていてみんなでテレビを見ていました。

昼間はおじいちゃん(正三郎)が強いのでNHK国会中継です。だいたい、国会を見ていると口喧嘩のようなものです。お父さん(秀典)は何でも誰かのせいにしてしまいます。台所でガラスのコップを落として割ってしまうと、通り道の縁に当たるようなところに置いたおばあちゃん(美代子)かお母さん(妙子)が悪い。と人のせいにしてしまいます。その性格が姉(裕子)に移り、だいたい僕(郷介)と兄弟で何かあると「アンタのせいよ」と僕のせいにされてしまうのです。口がきけるくらいの年からずっとそうなので、僕は世界中の悪いことは全部僕のせいで僕がなんとかして世の中全部を変えないといけないと思っていました。お姉ちゃんのせいにしようとしても意地悪く返されて結局僕のせいになるのです。

昨日、親父とふたりで外食に行ってメニューで揉めました。それを契機に子供の頃僕の誕生日にお母さんが僕にだけステーキを焼いて、お父さんが「お前にだけそんなんあんのか!ええのう」と恨めしそうにして焼き魚を食べていたのを怖くてずっと覚えていたので、まだ根に持っているのではないかと問いただして見ました。

そうすると、誕生日を祝うのは良いがメシに差をつけるようなことをするのは不公平でだめだと思うとのことで、やっぱりちょっと根に持っていたんだなと分かったのです。

こういうとき、昔からすぐに「郷介だけ良いものを食っている」「お母さんが分け隔てするからだ」「お父さんには子供の好きなものより大人の料理が良いと思って」などと展開して、最後にはお父さんが悪いのかお母さんが悪いのか僕が悪いのかお姉ちゃんが悪いのかはたまたおじいちゃんが悪いのおばあちゃんが悪いのか、食卓で6人の誰が悪いのかという責任の押し付け合いになり、だいたいお姉ちゃんが悪いことは僕のせいになって、お父さんが悪いことはお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんのせいになってしまうことが日常茶飯事でした。

しかし、おかあさんが別け隔てをするのもお父さんとおばあちゃんが町家暮らしで洋食のほうが美味しいと思っていても近所の魚料理などを美味しいと言って食べないといけないみたいなことが悪いので、子供と同じ料理にしてほしいと素直に言えないお父さんが悪いといえば悪くなるのですが、お母さんにはその手はなく、またそういったところで恐らくお父さんがひねくれてしまって何かをこじつけるのです。

おじいちゃんが死んで俺が家を出るとお母さんも家を出て、お姉ちゃんひとりで4人の世話は出来ず結婚して家を出て、おばあちゃんが施設に入って、ここまで登場していない8歳下の弟は引きこもり、親父と弟ふたりだけになって家に俺が病気で帰ってきました。

それから、食事は弁当や外食ばかりになり、からあげやハンバーグなど洋食ばかりになって、俺は少し太り、家族でのケンカも滅多に起こらなくなりました。

「お父さん、優しくなったよ」と電話でお母さんに言っても「もういいわよあんな人」とそっけなくなって、宮澤家の家庭環境は修復困難ですが、それがお父さんのせいなのかお母さんのせいなのか、はたまた俺のせいなのか姉のせいなのかということは多分、誰のせいにしてその人を悪者にしたからと言って解決する問題では無いんですよね。

政治家が責任追及されるのは、結局責任があるということになったら辞職を迫られ、議員の椅子がひとつ空いて野党に入り込んで議員年金をもらう余地が出来るからであって、結局はお金の問題なんですよ。家で誰かを悪者にするという意味では、結局俺とお母さんは出ていくしか無くなり、出ていったら残りの家族で円満なのかというと、結局いちどは一家離散しているわけです。政治家の真似事をしても仕方がないのです。