殴らせることに快感を覚えるサイコパスの話に共感した

映画「セブン」で語られたテーマだが、7つの大罪のような「してはいけないこと」が規定されている時に人を「どうしてもそうしてしまうシチュエーション」に追い込んでその人が「してはいけないとされていること」をしてしまうことにニヤニヤするという悪趣味な話。

これはDV家庭においても良くあることで、マゾとはちょっと違うが似ていて、世の中で暴力はいけない、DVが起こっていたら夫の責任であるというような設定のもと、夫を怒らせて夫が暴力を震えば私が被害者で夫が犯人になる、そのためには暴力を受けて痛いのは我慢できるとかむしろ快感である。こういうロジックを持った被害者というのは案外多い。俺もそうだった。

ゲーセンで、格闘ゲームをしていて、投げ技を決めたら相手が台を叩いて怒った。そうすると俺は次のラウンドに投げ技無しで相手の体力をあとほんの少しまで追い詰め、とどめを刺さないでずっとガードで粘ってみた。相手は色々の技を出して見て、しかし俺のキャラはずっとじっとしている。しばらく諦めて放ったり、デタラメに動かしたあと、相手は投げ技を決めてきた。その瞬間、俺が台を思いっきり叩いてやった。そういうの日常茶飯事だった。

去年あたり「あおり運転」がテレビのニュースで取り沙汰されたが、元々のあおり運転とは安全速度で走っている人の車を後ろから追い上げてクラクションを鳴らしたり「早く走れ」と追い詰めることである。しかし、それが法規制されると、今度は普通に走っているクルマの前を陣取りわざとゆっくり走って「後ろのクルマがあおっています」と犯人にしてしまう新しい迷惑行為が生まれた。その線引は道路ごとに表札されている法定速度になるのだが、現場で起こっていることにはそういうことは関係なく命を落とした人もいる。

俺は育ちの問題から性格がひん曲がって風紀委員と不良を両方している、矛盾しているようだが悪いことはしていないのに金髪と言うだけで不良扱いする全ての大人をハメてやる!みたいな時期もあった。結局、そんな遊びは親が甘やかしてくれるからできるだけの話で就職で髪を短くして普通の大人になろうとしたこともあったが、自分が大人を憎んでいたように過去を水に流して上手いこと言っているやつをハメ返してやりたいと思う人もいたことだろう。

もうケンカは飽きたよとこっちが思っていても、相手の気が済むまで執拗に反撃の嫌がらせを受けて心を病んでから、いわゆる普通の人に見えるように振る舞えるようになってきた。俺は元来は清廉潔白だと思っているとても悪いやつ、だったが、近頃は悪いことも良いことも経験してきて、分別とはなにかについての思索が深くなってきたと思っている。

だが、そんな哲学を考えるのはよほど暇な証拠だから、生活に安らぎと楽しみを。そう思って日々過ごしている。誰かを悪者にしなくても善業が目立つと比較的に静観が悪になると感じる人が善人への妬みから悪意を持つ。あえて善と分かりきっていることでもしないで利己的に振る舞うほうが普通の市民として目立たなく暮らせるというのが近ごろの生活の知恵だな。


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