トレカの確率的正解って実感できないものだ

ここのとこ毎日カルドセプトのことを考えている。

勝率100%は出た、何故それを自ら崩すかと言うとつまらないから、ではなぜ面白かったか。

それはデッキ作りというのは実験とトライアンドエラーの反復作業そのものの楽しさだから。

MTGで稲妻と山だけのデッキを考えたら、60枚で稲妻42対山18が正解に最も近いわけだが、シャッフルして遊ぶと現実には山を引きすぎたり足りなかったりすることはあるだろう。その都度、最初に打ち出した式が正解であるにもかかわらず山を足したり減らしたりしてしまいがちである。それに4枚制限と種々のクリーチャーとスペルが絡まると、もう計算より感覚の問題になってしまいがちだ。バカだが、それだけで実験していて楽しかったのだろう。

そもそも、繰るという行為が魔術的で非科学的なアプローチと言える。順序を全て把握しきれたら、裏返して繰るという行為そのものの意味は乱数的でなくなる。乱数というのはコンピュータ用語で種の値からなるべく非線形な変換をして指定範囲で散った値を求めるアルゴリズムだ。低ビットレートのコンピュータならトランプゲームでも乱数を全て明かされて負けることはある。

それに対して、確率というアプローチは種明かしをしないで乱数をブラックボックスとしてそこを解き明かすことを放棄し、分からないなりにあぶり出すという方法だ。俺のトレカ研究はずっとこの方法で持って臨んできたものだが、大規模なトーナメントでベスト8を取って、いっときはプロを目指して諦めたりもした。

それから、地域のゲームショップにふらっと遊びに行くと3位だった。5位までは景品が出て、店側から1位の人がインチキであることを暗に示され「参加費とテナント料、カードの仕入れなどを考えるとお客さんに景品を出したらもう目いっぱいなんです」と言われ、その後に店は閉店した。

この時に子供たちの間で俺がエスパーだという噂が立った。手品の種よりも確率計算のほうが複雑なルールと絡まって肥大化して、説明しても理解不能になっていたのだ。

確率という学問それ自体が博打の親ができるほどの金持ちがブラックジャックのギャンブルに熱中して生み出した数学の新分野で今ではひとつの体系になっている。だが、多くの人は確率を統計を誤解している。コロナウィルスの軽傷率が80%というのは統計で、統計が8割だから自分の治る確率が8割だ、みたいのは厳密には誤解と言える。

トレカの場合も親が来るのでなく対面で基本的に自分で繰るのだから、確率でアプローチするより手品でアプローチするほうが正解に近いのだろうな。

近頃ではお祭りのアテモン屋を見ると、いちど引いてくじをもらってからパソコンのプリンターで欲しい景品の番号のくじを自分で作って抽選箱に手を入れて服の袖に当たりくじを忍ばせてから番号の書いたくじを手に入れて引き当てたように見せたら、店は本当に当たりの景品をくれるのか、みたいなことを考え始めた。でもそれ犯罪だよな。そうするとくじ引き自体も景品表示法違反にならないかとか、つまるところは大きな玩具が当たらずに小さなおもちゃを買う代わりにアテモンで小遣いを騙し取られた恨みみたいなものが俺の根幹にあるのだろう。

おもちゃ屋やゲームショップは市民の子供ひとりひとりに玩具を配分するのでなく、子供の小遣いをキン消しビックリマン、カードダスなどで取り上げて大きな玩具を見せつけるだけというような商売だったな。平成令話の子供たちには分からないかもしれない、昭和時代の貧しさよ。まあ戦後生まれよりは豊かなのだが。

お年玉を「貯めといてあげるから」と取り上げて42歳になっても返してくれない母親とかも、昭和のデフォルトだよな。

そういう自分も親が保証してくれる生活の中での小遣い以上に生活費を切り盛りするようになると簡単に玩具にお金は出せなくなる、みたいな事情もまたあるわけで。だからトレカも買って遊ぶ以上に確率で試算したり考えたりしているんだよな。カードリストをネットで入手してプリンターから出したこともある。流石に実物と混ぜたりそれを売るということはしていないが。

価値を認めて定価で買うくらいの豊かさが欲しいものだが、それって結局お金の空回りよね。


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