考えてみるもんだよな

昨日の続き。 

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個々人の幸福追求がぶつかり合って争いが生まれるのを避けるために宗教的戒律があり、皆がそれを守ることで秩序が保たれる。この状態がいったん資本主義社会になった時にマルクスが唱えた共産主義とアプローチはぜんぜん違うけど、結果としては似てくるものじゃないかな。

ただ、江戸時代から「坊主丸儲け」な状態はあるし、共産主義も配分係である政治家の贅沢が原因で内部崩壊をしはじめたように思える。戒律を迫られて抑圧された信者や国民から見ると宗教家や為政者が富を独占するために戒律を作っているかのように見えるのも仕方なし。

このへんは報道のあり方とかも絡んでくる問題だ、新聞記者が良識を持っているかという。

俺はパソコンを買ってもらってインターネットの仕組みを勉強したすぐから、自分のエゴから生まれてきた文章を手書きのHTMLでFTPからレンタルサーバーにアップしてきた。映像や音楽を楽しんでいる人がほとんどのところに、文章をアップするというのはなんとも左翼的で変なやつなのだが、当時は文章芸をウェブでする人がおらず青空文庫があるばかりで、暇な人が読んで感想などくれていた。

それが「そんな表現の場がある」という認識ができると、ツールが便利化してウェブに文章を上げるのは技術者の特権で無くなり、もっと上手い人とか大掛かりな広報によって駆逐されたんだよな。それは物書きとしての勉強不足なんだろう。思い知らされたというか。

俺が20歳から22年ブログを続けて42歳になっても世の中には50歳60歳の物書きがいるわけだし、何なら定年後の70歳からでもウェブに参戦する人もいる。もちろん自分より若い人も。

政治家もジャーナリストも宗教家もアイドルもブログを持っているウェブの世界で、全然畑の違うところの論理を擦り合わせてきたその途上には色々の間違いがあったとも思うけど、現状としては皆がそれぞれ適度な距離を取って、自分とこに好きなこと書いて発表することが出来るようになって有意義に感じる。

思い出せば高校時代でもひとりひとりの生徒に対する指導のあり方を若い先生と年寄りの先生で文句を言い合って決めていたような。ものを言える場があるのは本当に自由だ。

叩かれて悩んだこともあったけど、それは上手く言い返す術を持たない人の手段であるわけだから、反対に何故叩かれるかを理解して、汲み取れるようになっていけば苦しくなくなる。

声なき声に耳を傾け、より弱いものの心の叫びを読み手に届く言葉に変えていけたら。