徒競走は頑張ってもクルマに勝てないが頭は違うという話に異論を唱えたい

やねうらお先生が「頭を級数的に良くする」という話をされていた。

記憶の詰め込みと連想の相互作用で頭を鍛えると賢くなるという話だ。

あと森博嗣にドハマリしていたとき人間走っても速さが10倍になったりはしないが、頭は違う何倍でも賢くなるみたいな話を読んだ。ただし、森博嗣の小説の登場人物は「頭が良い」と文中に書かれてはいるが、その描写について西之園萌絵が他所のエリートお嬢様とチェスを指して勝つ「あの子私にチェスで勝つのよ」という風に段階を踏んで賢いことにしてあるのだが、それらは結局チェスの新しい棋譜に触れるものでなく、世間的にチェスが強いと賢いから小説で登場人物をチェスで勝ったという描写を入れて引き立ててあるだけで、文章のトリックであって本当に作者が十倍賢いかと言うと今では疑問である。

確かに、徒競走のタイムは10秒を切るくらいが今までの人の限界で、体格差なども露骨に出るだろうし、そこで競っても級数的にタイムが伸びるようなことはなく、反対に漸近的に記録が良くなるほど伸びしろが小さくなっていくようなグラフで持って成長するものだろう。

だが、それが人間が0,01倍しか伸びていないというのは徒競走のタイムという尺度でしか測れていないからで、ゲーマーというライフスタイルを持っていた俺から言わせると、体細胞と言うか神経が何倍も細やかに成長性てゆくものではないかと言い返してみたい。

神経が細やかに伸びるというのはどういう効果を持っているかというと、例えばケータイやパソコン、もちろんテレビの画素のサイズが半分になると4倍の解像度になる。

俺が専門的に扱っている格闘アクションゲームでは1秒60コマのパタパタアニメを操ってゲームを進めるのだが、このアニメの見切りが0.1秒くらい。ゲームを古いビデオデッキで取ると秒間60コマが秒間12コマに落ちるのだが、その差を感じ取る能力の有る無しが結果を分けるポイントになることがある。

もちろん、それだけではない。頭で思考型ゲームとして考える能力が勝敗を分ける場合もある。複雑だからね。分かると単純に思えるけど、映像化されたゲームから内部ロジックをゲームとして捉える能力の差によるところもあるだろう。また仕様やバグについての解析知識もいる。

それでも、いろいろな要素のある中で神経が敏感というのは同じゲームをしていても体感時間に差があって、アイツと同じことターボを落とすと出来るのにと思ったことがあって、繰り返し練習していると、見切りが良くなるという経験はあるし歳かサボりか42歳、下り坂に感じる部分もないわけではない。

余談が過ぎたが、人間走っても速さは10倍にはならない、同じように俺は賢さも10倍にはなっていないと思っていて、知識を先人から継ぐことで便利な道具として能力を拡張しているんだと考えている。そして、クルマのように10倍速い道具を操れるようになると、運動角が10分の1ずれるだけで到着点が10倍ズレるのだ。

だから、神経が倍とかひょっとすると10倍細やかになると、技術の進化で得られた恩恵の受け取り方も倍とか10倍になっていくのではないかと考える。目が悪いとテレビが高精細になっても変わらないのだから。

そういうものを神経ではなく感覚つまり英語にするとセンスと呼ぶ。センスがあるとかセンスが要るというのは芸術分野では常識で、そう言うのが流行ったことがある。正しい意味を理解しないと「センス」という得体の知れない能力を獲得しないと常人に芸術は理解できないという恐れ多いものに思われるのだが、音楽をするのに音感がいると考えるとセンスがいるというのはその程度の意味であたり前のことなのである。

問題は、それが後天的にどのような手順で訓練すれば他に人にも同じように身につけることが出来るのかということであろう。

そういう意味で勉強は国を上げて教育を敷き、取り組まれてきた課題である。だから子供の頃からレールが敷かれてハズれず進めれば10倍になったと思う人が出てくるのも不思議ではない。だが、運動神経や音感なども走る速さや出来た音楽を比べて10倍にはなっていなくても、センスを身に着けているものは10倍の感度で感じているのだ。

それが神経によるものという解釈が正しいのかはお医者さんに聞いてみたいところだ。


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