頭脳明晰で勘も良いということは両立するのだろうか

先日PS2スパロボをしてから大好きだったダンバインのテーマ曲が思い出せなくなった。

イントロを思い出すと何故かゲッターロボが脳内に流れてきて、もっと良く思い出そうとするとダンガイオーと混ざって分からなくなる。

仕方がないのでYouTubeダンバインopを視聴すると「なるほどこれは混ざるわけだ」と。

似たようなものがゴチャゴチャ並んでも、決してぼやけたり混乱すること無く見分けが付くのが頭脳明晰である。順序や違いがハッキリ分かり、混乱することがない。

俺はどうだろう。昔は頭の良さに自信があったが、いつからかひどく精神的に追い詰められて混乱して、精神科に入院してから出されたおくすりを飲むととても頭が悪くなった感覚になる。脳内分泌物を抑える作用があるので、それを飲むと思考が鈍るのが始めは嫌だった。

しかし、頭が鈍ると頭が冴えていた頃には絶対に間違えなかったことを勘違いするようになり、勘が鋭くなった。例えば、榊原郁恵と柏原芳恵を間違えるのは普通のことで、テレビを流していて流れて忘れる間に混乱して、人と会話する時には既に話が入れ替わっているというようなことを経験すると、人の名前を騙るのは犯罪だが、間違えたのだからそっちが悪いとばかりにいくらでも似せて混乱させる悪いやつがいる。

あと、人の悪口というのもズケズケと言うものではない。例えば俺はストリートファイターIIのガイルが気に入って続編でも何でも使うことが多いのだが、ファイターズヒストリーのマットロックやKOF’95のハイデルンなどを使って、ほのめかすように悪口を言うのだ。この違いがハッキリしているほど、悪口にそれと気づかない鈍感さがあるのだが、このぼやけて混乱しているのと類推能力が高いというのは同じことなのか、頭脳明晰と類推に敏感なのが果たして両立しうるのかみたいなことを近頃考え始めた。現代文と英語あるいは古文の得意の違いと言うか。

多く、どうしてそんな罠にかかったと思うような人は寂しくて騙されてやっているか、あるいは忙殺されて混乱しているのだよな。俺も両方経験がある。浪費にまみれた遊び人との友人関係をほどほどにして距離を取り、寂しい時は本でも読んで、何か判断が必要な時は自分の中でケリが付くまで考える。考えている間に答えを迫られるようなことは全て断る。

結局、俺が受験に対して嫌な思いを持っているのって、大学に落とされたことを根に持っているのではなく本やノートを持ち込んでいくら考えてもよいというものでなく覚えてきて制限時間内に解いて提出しなくてはならないわけだから皆がしていることは自分に解けるやさしい問題を試験時間中に見つけることであって、それに長けた人が科学史に残るような誰も解けない難問を解くようになるのかと考えると、近頃のノーベル賞が東大でなく京大や私学に取って代わられる遠因があるように思えるんだ。急かされて混乱していたんだ。

じっくり考える時間があるということは、それだけでとても贅沢で有意義なことだと思う。


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