資本主義経済と工業化社会における本当のシェア

小難しいタイトルを付けてしまったが、簡単な話。

貧しい人と裕福な人がいて、公平を理由に裕福な人から貧しい人に分けるのでなく、全ての持ち物を1点ものでなく工業化で同等品として、貧しいものにもそれを持てるようにする社会。

高度経済成長期には消費は美徳とされ、メディアで流行が作られて皆が流行を追って狭い家に置き場の無くなったものを捨てて新しいものに買い替えた。

それに皆が飽きた時に整腸はゆるやかになり古本屋ブックオフは大企業となった。

もう、作らなくてもあり物を皆で交換するだけで充分に豊かなのではないかと思える。

ただし、そうなった社会の中で持ち物の良し悪しを比べるような不公平があるのなら、一度捨てられたものの中から良いものを選び取って、同じものを生産して分配すれば良いではないか。

過去の俺は確かに個性の時代において他人と持ち物で差別化することを好んでいた。皆が持つなら自分は違うものを持ちたいという欲求があった。そうした先に、違うものを持っていると言うだけで、俺の持ち物のほうに周りが興味を持ち、交換したり取り上げられたりしてきた。恨んでいないと行ったら嘘になる。だが、取り返してもどこか虚しい。寂しいのはその持ち物が奪われたことより、奪ってやろうとして友達を持ち物のために裏切る精神性なのだ。

それから、俺はモノを選ぶ時に充分に流行っていて、たくさん量産されているものを選ぶようになった。そうすれば、他のものが欲しがっても同等品を替えば問題ないからだ。同じものを持つほうが幸せなのだ。

それでも、まだまだすれ違いは起こっている。俺が何かを持つと、俺と同じものを持つと同じ者同士で差が無くなったら負けるのが怖いという発想で、相手から違うものを選ぶようになったのだ。被せてくるのは強いやつだ。強いものと持ち物が被るというのは辛いこともある。

そのへんは、最早気の持ちようというやつになってくるのだろうな。