運の内因性、つまり自己責任論から語るストII

ストリートファイターII及び今遊んでいるヴァンパイアハンターの話。

たぶんデモンクレイドルと昇竜拳、カオスフレアと波動拳が混ざるが適宜読み替えて欲しい。

まず、弾ジャンケン理論つまり波動昇竜の「読み合い」において究極的には「運」である。

これを持論として展開していたことはある。

運とは何であるか。人には推し量りようのない世の巡り合わせとでも辞書にあるだろう。

その論理を展開する前は、ずっと自己責任論だったのだ。

俺は子供の頃から相手がコンピュータのファミコンからゲームに入っている。

もっと幼い頃に親とトランプなどはしたのだろうが、俺を形作ったのはファミコンだ。

ファミコン論理回路で出来ていて、特に好んで遊んだゲームには乱数の概念はない。

こうこうこうだからこうこうこうすればよい、とどんなに複雑でも答えはあった。

そして画面から答えの読み解けるグラディウスは名作で、反則はない。

しかし攻略本などの外部情報がないとよほどのことがないと解けないたけしの挑戦状。これはクソゲーである。

ここでも自己責任論で、解けない自分が悪いと捉えるよりはたけしの挑戦状がつまらない。こう捉えているのである。

 

話をストリートファイターIIに戻すと、コンピュータ11人抜き。これは健全な遊び方である。

最初の頃はゲームが得意で、待ちガイルで解いて退屈だから色物キャラのダルシムになった。

対戦も最初は100円で1回ふたりで遊んでゲームオーバーという形式を取っていた。

しかし、ゲーム基盤の設定を変えると通常はコンピュータ勝ち抜きで100円追加で入れると乱入対戦といってコンピュータ対戦が中断され、人対人になって、勝者が生き残ってコンピュータ戦を継続できる。

これが社会的なブームになるほどストIIのインカムを増大させた。

その中で、俺は待ちがいるにハメダルシムにハメザンギで最初は勝ちまくった。

自分はゲームが得意だし勝てると信じていた。

しかし時は過ぎ、ゲームがストIIダッシュストIIターボとバージョンアップし、攻略法も自分で編み出した頃とは違い雑誌などで多くの参加者の共有知識となり、攻略法でひとり勝ち出来る時代は終わり、いわゆる「読み合い」の時代に突入する。

そこでも、負けた時には自分が相手の脳や神経からなる思考回路を8ビットや16ビットのコンピュータを解析するように完全理解して「勝てる」そして負けたら自分の責任だと考えた。

ストIIターボの全国大会では予選を抜け、本戦ではダルシムを使いリュウに破れ、東京までの旅費を出してくれた親に電話で謝った。親は電話越しに泣いていた。俺のせいだ。

もう、それは思い返すと辛い出来事で、それを背負ってバージョンがもっと上がったヴァンパイアハンターで、ダルシムという脇役でなく主役が良いと新キャラのドノヴァンを操り「最強」をお題目に毎日練習した。

 

それはそれで日本中のストIIファンを巻き込んで「ドノヴァンではミヤザワくんより上はいない」と皆が認めてくれたのだが、残念ながらドノヴァンは主人公ながらゲーメストダイヤグラムでは下から二番目のキャラであった。

 

そこからさらにストIII3rdでは歳をサバ読んだ春麗のコスプレ姉ちゃんを年の近い恋人と勘違いして、春麗で勝てば喜んでくれるだろうかと練習した。持論ではブロッキングがあるので究極的には投げキャラのヒューゴかアレックスが最強になるだろうとは予見しながら、自分で春麗を選んだのはそのためである。この頃は既に対戦ゲーム自体下火で、しつこくやるのが俺だけで、発売直後に40連勝して雑誌には春麗が最強と載せられ、そして「投げキャラが最強だと思うんだけど」という言葉を分かった人は「まこと」だろうという下馬評になっていた。

 

それで色々あって、アメリカ遠征から帰ってきて、仕事も順調で、身なりが良くなった俺をゲーム関係で敵視する人々が現れ始めて、ゲーセンがゲームを定額貸出制や無料遊び放題にして、際限なく乱入してくる相手に連勝の果てに破れた時には、もうそれを自己責任論で背負い切る心の強さが支えきれなくなった。世界チャンピオンになったはずが、まだまだ続くのか、この戦いに終わりはないのかと思った。そう思った瞬間「こんなもの俺のせいではなく運だろう!」と強弁して辞めてしまったのだ。

 

それで、一度そう思うと興ざめして、勝ったも負けたも運の巡り合わせが絡むから、そのひとつひとつに責任を背負い込むことはなく、大会も宝くじのようなもので、参加者や敗者から巻き上げた金を勝者に分配するものの運営者がピンはねしてマイナスサムで分配されるものだからなどと、運の絡むもので儲ける仕組みギャンブルの世界の研究にのめり込み、麻雀格闘倶楽部でマスターとなり、桜井章一の運に関する本を読み始め、運本ばかり集めだすと運本がよく売れるということで東大の気鋭の女性研究者である中野信子から脳科学から運とはどういうものであるかというような本まで出版された。

 

しかし、ある日ふと昔は自己責任論で考えていたことを思い出した。それは老学者で自己責任論が当然であると考えている古いタイプの学者の弁からである。

 

そうすると、頭が柔らかくなり、同じ事象でも自己責任論と捉えるか、特に対戦型で負けたのなら相手に自分が読まれたという負けの認め方をするか、運否天賦で決まっていると捉えるか、他にどんな考え方があったとしても例えば相手に負けることを強要して勝つというような実力行使に出ない限りは、あらためられるのは自分だけであるから、向上のためには辛くとも自己責任論の立場を取り、自分の思考と行動を改めるしか進路はないとも思えてきた。

 

そうすると、たけしの挑戦状クソゲーなのではなく、解けない自分が悪い。ゲームに隠された面白さを味わえない自分が悪い。こう思うと駆け引きが多少でたらめなコンピュータ相手のヴァンパイアハンターをまた研究しようと思えたのである。

 

そして冒頭に書いたようにデモンクレイドルも昇竜拳もカオスフレアも波動拳もほとんど出てこないまま本論を締めくくりとするが、ヴァンパイアハンターは楽しいゲームであるとまたあらためて思えるようになった経緯は以上のとおりである。

 

幸運にも、俺は既に楽しいゲームを棚にたくさん持っていたのだ。と締めくくろうか。