カルドセプトに限らずシンデレラシンドロームなんだろね

まずは最新のブックから。

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当たり前のことならば、言わないほうが良いという人もいる。すごく分かる。

世の中に嘘が蔓延していると穿ったものの見方が出来るものだけが得をする。

だが、嘘と本当の境目がどこにあるか見分けのつきにくい事案だってあるだろう。俺は公家文化の残る奈良の城下町で育ったが、学校で習うのは基本的に寺子屋が起源の武家文化から来ているものも多いらしい。それらは結局領有権の主張や年貢の取り決めなど、お百姓さんからすると嘘のかたまりのようなもので、いわれなく農作物を取り上げられてきたことに忍耐でもって生きながらえたものもいれば、嘘を嘘で塗り替えてガマの油などの薬を売り、商売屋として下剋上をはかったものもいる。

その中には、嘘か本当かは絶対的基準があるわけではなく「皆で嘘をつけば本当になる」という安直な考え方が案外と根深い。自分たちは嘘をついて本当のことを言う人を消してしまおうとするわけだが、それは日本の村落で村八分をするに等しく、そういう文化の村落を支配するのにサーベルや拳銃などの武器でもって日本軍が作られた。

村の中で嘘がまかり通っていたとして、それは外から見ると奇妙なものに思えるもので、ある村の中では馬と鹿の名前がひっくり返されていたとして、そこに同じ言語系の来客があると反対だと分かるものでも、違う言語の外国人などが来ると反対であることが分からないままひっくり返った言葉に訳語が当たってしまうことなども可能性はある。

俺の生まれた町は嘘だらけなので、滋賀の田舎から嫁いできた母親はついに馴染めず出ていったし、そこで育った俺は学校の勉強と周りの言葉のあまりの食い違いに苦しんだ。

その中で高校くらいではもはや何が本当で嘘なのか混乱して数学と物理学しか正しさを判じる術はないと思いつめたものだが、ではそうならない人が何を基準にものを判じたかというと、絵本やマンガにテレビなど、目で見て分かるものと結び付けられた言葉による疎通性なのだ。

とかく目で見て示されたものに名前が割り当てられていると、そう言えば通じる。それは子供の頃には絵本や図鑑に漫画本が適していて、日本の国語教育のように活字の文脈から「思い」を読み取らせようとするのは、教育委員会のやり方でもありながら他方では愚民化教育と非難されている。

これはどちらも誤りで、生活があって自然に学ぶであろうと思われることの上に高度な知識としての教育というものを授けることで民度をあげようというものなのであるが、親を始めとする周囲の大人が子育てを学校にまかせきりにしたら、学校で目指す教育以外の当たり前のこともすべて教えないといけないという教えや学びに対する認識の甘さが現実となったのが現代だと考えられる。

揺らがない名詞に正しい論理と実証実験可能な現象群。そういうものが俺にはなかった。

ただし、何も確かなものが無いようで、それでも生きていけるのが公家文化の名残というか今どきの世の中では当たり前のスーパー・コンビニ・ショッピングモールでの食の安全。毒味をせずに食べても毒に当たって死ぬことはない。ただし、この町で葬式があったときに出される仕出しの料理などはいつ食あたりになって葬式に出た客がつられて死んでもおかしくない。

そういう町で時々腹を壊しながら、年の半分ほどを風邪で寝込みながら、俺は生きてきた。

そんな俺はこうしてブログで情報発信をしながら、自分が書いていることに正しいという自信が持てないまま、誰かに正してもらうことを繰り返してやがて真実に到達できるのではというような希望を抱くこともあった。願わくばシンデレラが白馬の王子様に出会うように。

けど、実はこの町で生き残った自分こそがどちらかと言うとお姫様を探しに行かないといけない王子の方で、子供の時から読む本を間違えていたとしか今となっては言いようがない。

この歳にして、ようやく正しい基準を持って学んだ小学生並みの生活力である。小学校で学べることの中には案外と良いものもある。お金が何処からともなく無尽蔵に与えられ、それを分け与えることで人の力によって生かされてきた俺ではあるが、最近その出処と上限値を知り、またより多くを持つものと争うことになるかも知れないという危機感を持った。

幼い頃から運命に思えていたものが、実は流れであって、難しいけど抗うことも多分出来る。

ただ、自分とは何かという自我と流れの向きが食い違ったせいで苦しかったけど、抗うではなく乗っかると、どんどん多方面から援助を受けて幼子の頃の夢に戻れる気もしている。

子供の頃からテレビの見過ぎは情報を相手に操作されるとか、テレビ局の意図が分からないものからすると不気味なニュースや映像の濁流であったわけだが、今日の日テレウェークアップでは菅総理の出演でアナウンサーとコメンテータが質問を投げ、ワクチン投与による国民の安産こそが喫緊の目標であると括る菅総理に対して、それは進行形で近未来に達成されることが見込まれて、もう1歩が欲しいとテレビ局の人は考えている。だけど総理の生出演に反論は無礼ということで、そのコーナが終わってから、次に高齢者ドライバのアクセルとブレーキの踏み間違いで起こった事故の裁判が責任追及の法的な限界が制度それ自体の限界まで来てしまっているという筋で番組は終わった。

それを見ていた俺は、昨日のテレビで渡辺えりさんと関ジャニの横山くんが山形のスーパーで漬物やこんにゃくを2000円分くらい買ってきて食べるという番組のひと幕を覚えていて、近所のスーパーではいつも弁当やチーズやお肉類に飲み物しか買わないのだけれど、思い切って魚や漬物を買って帰ってきた。インスタントばかりで調理場は家になく、バナナと焼き魚とチーズバーガーと書かれた菓子パンという訳のわからない食事ではあったが、冷蔵庫に放り込んだ漬物はこの数年ずっと居酒屋にでも行けば締めに茶漬けでも食えるかなと思っていたところ、お茶漬けくらい家で自分で用意しなきゃね、インスタントより面倒でもさ。

カルドセプトの話は書きたかったけど、特にブックの公開以外に語ることは当たり前なので今更書くまでも無いことに思える。もうみんな、充分に体験して文になってなくても分かってることがあるよね。

「竜とそばかすの姫」みてきました。。。

すずちゃんの強さが心に宿ってネタバレ警察ジャスティスを怖がらずに書きます。

ただまあ、ネタバレがヤバイのは特に推理小説だけの話であって、犯罪のトリック及び犯人を隠匿して文章を読ませて推理を楽しませるその過程を楽しみたい人が先に犯人を知って読んでしまうと楽しみがなくなる、またマンガも次号を買わせるためにショートストーリーを始め終わり、始め終わりと切るのでなく「はじめのはじめ」「前のオチと次のはじめ」と切って連載するものなので、言われてしまうと商売のジャマになるという側面に対して警察がある。

その意味で、興行収入を上げるためにテレビで煽って見に行く人が興味を持つポイントがどこなのかってところを外すとネタバレしても良いのかなと言う気はする。ホントに見たのか試すためにネタバレを反対に求めるという人もいるだろうし、映画台をケチってネットであらすじを知りたいという人もいるとは思う。

映画は映像作品なので2時間の始めと終わりを結ぶ大筋ではなく、人それぞれに途中で拾う映像ってのがあると思うのね。その描写が大筋をネタバレすることでネタバレに満足して見ない人というのが出てきたら、映画を必死に作った伏線部分のスタッフの仕事を殺すことになる。

ネタバレはいけないことだからネタバレしないという風にルールだからそれを飲むのがモラルであって自分はしないという考えだった俺が、竜とそばかすの姫を見て涙を流したシーンひとつひとつ、描かれた絵的なシーン遷移と音楽無しで泣くはずはなく、だから自分のしているこのブログ執筆行為とかネタバレというルールの存在意義とかも考え直すきっかけとなった。

「ネタバレを怖がらずに書きます」と書き始めたが、俺はやっぱりネタバレ無しでこの映画を見て欲しいと思うので、書かないでおきます。

俺には心をえぐられるような描写があって、映画館から出たら飯でも食って帰ろうと思って見に行ったのですが、涙とマスクの中の鼻水でグショグショになって誰にも顔を見られないように映画館を最後に出て清掃のお兄さんにお辞儀をされ、トイレで顔洗ってイオンモールの中をうつむいて歩いてスグ帰りました。スコボコに心をしばかれました。

まあ、最後まで読んでくれた人にネタバレすると、ライフセーバーのお母さんに育てられた娘がお父さんのスマホ電子音楽に触れ本と電子機器に囲まれて育ってみたら普通の高校生でメガネっ子の同級生がいて、スマホからつながった仮想世界で歌手デビューする。そこで出会った竜は仮想警察ジャスティスに正体(仮想世界ではなく実世界の姿)を暴くことで制裁を加えようとされるが、色々あってからお母さんがライフセーバーとして他人の命を救うために勇気を出して人を救ったことへの幼い頃からの自問自答にネット世界で袋叩きにされているアカウントの実体をひとりの人間の心として守ろうとメガネっ子のヲタの仮想世界知識と周りの人々の良識に背中を押されて走り出すという女子高生のひと夏の成長を描いたもの。

サマーウォーズとどう違うかと言うと「よろしくお願いしまーす!」のシーンでキーボードを叩いてパソコンにダイブするのと違って、ネットの世界はくまなくどいつにも実体があって、ひとりの女子高生がひとつのアカウントを救うというお話。

どういう風に救うのかというところを映画を通して音楽と映像で楽しんで欲しいと思います。

そんなこと言ったら相手が傷つくかも

何も考えずに文字をタラタラ打つのは慣れてんだけど、何気ない言葉で傷ついてしまう人もいるのかもなと思うと考えすぎて書けなくなる。俺って相手を変えるためにちょっと傷つける必要があるみたいな考えをしているところがあるんだろうかね。

相手を尊重して自分の方を変える。そんなことばかり色々の人にしていたら水のような流動性の人間にならないか。のれんに腕押しはそれはそれで気持ち悪いもので、頑として譲らない剛性のようなものこそぶつかり甲斐があって安心感にもなる。

人間は脳で考えても結局のところ筋肉を動かすことしか出来ないらしい。キーボードを打つのも筋肉だし、口から言葉を発するのも楽器を奏でるのも筋肉。もちろんグーで殴りますみたいのが筋肉で、考えるということは結局どこも動かさないで堪えることかもしれない。

堪えて聞いて見ているとやがて動かしたいものが変わることはある。ためる時はためて頑張る時は頑張る。筋肉の動かし方を変えるのに勉強をするって何かとても遠いもののように思えるなぁ。知らず知らずに何処かに響いて利いているのか。


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