鳥山明とマシリト博士

 鳥山明というと漫画「ドラゴンボール」の作者として有名ですが、俺が子供の頃はDr.スランプ・アラレちゃんのファンでした。アラレちゃんはノリマキ・センベエ博士の発明した少女型ロボットで、ロボットのアラレちゃんが普通の学校に通い色々な友達との日々の小事件を描いたほのぼのとしたコメディ作品なのですが、たまに敵対する科学者マシリト博士が登場してお邪魔ロボットなどが出てきます。このマシリト博士には原案モデルとなった実在人物がいて、鳥山先生が描いた漫画を納める集英社の編集者トリシマさんだと「あとがき」にチラッと記されているのを子供ながらにくまなく読んで「ああ、編集者っていうのが悪い人なんだな」と思って育ったものです。

 ところで、昨日の記事で近代文学によって描かれる心の葛藤とは何かというと、藤の蔦がもじゃもじゃと木に絡むように、入り混じって複雑になった心の動きを追体験出来るように記された文章が読んで面白くて売り物になったという話だと解いたわけです。

 そして、その葛藤というのはもつれているわけで、紐解くと一本の筋が見えてくるわけです。矛盾なく、物事が複雑でもそこに筋をひとつ通すためによく考える。近頃では論理的であるとか言われますけど「筋が通っている」と言った方が良いのかもしれません。混濁した中から自分なりの筋を通す塾講のプロセスが人の心の成長にはあるものだという体験論ですよね。

 しかし、現代では多くのことが解きほぐされて、ひとつづつ正しいことを学んでいけば間違いはやがて是正されるという考え方もあります。ただし、それで都合が悪くなると嘘をついて騙す人というのも後は絶たないもので、俺らの子供の頃は学校で習う歴史は嘘で先生が子供を騙しているという風に読み解く人もいれば、学校で習う理科が正しくて自然には間違いがなく人間関係が嘘にまみれているという考え方もまたありました。

 考えてみると、自然というのはジャングルの密林のように混沌として筋などは無いようにも思えます。それが田畑となった時には植物が種から食べられる実を育むまで、他の邪魔が入らないように人が世話をして、それで暮らしが成り立っているとも見て取れます。農耕社会の豊かな恵みは人に退屈を与え、それで文明が発展して集落は大きくなり家が建って都が出来てという風に歴史を節目で見ると前後や矛盾はあるかもしれないけれど、流れで見るとまあ古代からそんな順序で出来たのかなという風には考えられますよね。

 そうなってくると筋が通っているというのは物言いに嘘がないという意味でもあったのですが、ことが文筆となってくると先ず解して、物事はひとつの筋で示せるようなものではなく、編んだり織りなしたり耕したり建てたりと、人々の手で作られてきた様々のものではないかとも考えられます。

 さて、出てきました「編む」んですよね。そうすると、編んで集める編集者というのは漫画家を締め切りで追い立てて働かせる、とても悪い人のように描かれていますが、漫画家が原稿用紙に描いた漫画が印刷されて本になって読者の元に届くのに、どうやら必要な仕事のひとつで間に立って、まあ中間搾取みたいなこともしているかもしれませんが、そこも含めて仕事なわけです。

 そうして編まれたものは何かというと、アラレちゃんなら喜劇だし、ドラゴンボールなら世界の不思議を巡る修行の旅からライバルとの激しい戦い。物語としては単純かもしれないけれど、マンガの絵で味付けされていて、日本中のファンが毎週続きを待っていたのです。

国語の例解

 子供の頃、難しい本を読んで背伸びするのが勉強の早道みたいに思ってた。そして躊躇するとか、葛藤するとか、漢字にするとかっこいい文字を見て育った。

 大学受験は失敗したが、受験を舐めている以上に大学という組織と学歴社会という大人の決まりごとがそんなの誰しも社会をくまなく知っているわけではないから、幻想で現実社会はそうではないだろうという風にも考えていた。自分は賢いから、やっていけると訳のない自信があった。

 フリーターをして金を貯めて飽きて辞めて家でテレビゲームばかりしていた。親の勧めで専門学校に行ったが、遠慮して授業料が一番安い学校を選んだ。行った結果は大したことは学べなかったように感じたが、それでも今思うと知らない子と雲泥の差がつくことだとも思う。

 パソコンはNECのPC98が普及の上り坂の初めで、学校で勉強している時点でパソコン通信から使っている界隈からは時代遅れの感はあった。トランジスタ回路から電子計算機にパーソナルコンピュータが普及して、今更何を学ぶのだという事で、出来ているパソコンを基礎理論から学びなおす事に無意味だとする人も多かった。だが、持っていない人はもっと多く、少なくとも持って使い方が分かる時点で下駄履き状態であり、恵まれていると思う。

 何となく入ったゲーム会社のバイトを辞め、中途採用で就職して仕事はすぐに覚えた。良いように利用されているに過ぎないが、競走馬か騎手に例えるとまあ勝ち馬だったと思う。その時は社会の仕組みを解き明かそうなどとは考えず、大学に行ったらもっと良いことが学べただろうかと大学に興味を持ち始めた。通勤電車で読んでいた小説に大学がカッコよく描かれていたのもそれを手伝った。

 俺はスパイ行為をして大学の教科書を買って集めた。そして東大工学部理科I類の教授の著書も読み始めた。それらは驚くほど簡単でつまらなく思えた。苦労して受験して大学に通っても教えてもらえることはこんなにつまらないかと思うほど。

 そんな俺の目の前に1冊の単行本が現れた。同じく東大の医学部の先生が書いたまあ今にして思えばくだらない本だ。本の内容は心理学を実例に当てはめて使う話だが、俺はその本によって大変な深層心理への攻撃を受けることとなる。「東大生の価値は東大の授業にあるのではなく厳しい受験の競争を経ることで勝ち抜くために猛勉強した高校生活にある」要約するとそんなところか。

 確かに、IT業界が特殊で学歴不問だったのも相まって、学歴が段々と意味を失いつつある時代だった。実際問題として大卒が就職できない就職氷河期世代だし、博士になっても仕事がないポスドク問題も実際であろう。そして運良く入った件のIT業界はパソコンでプログラムを組んでおいたら放っていても動くので皆タバコを吸って雑談しているだけでくだらなかった。

 俺が大学に興味を持ち始めたのは暇だったからだが、仕事は仕事で何もかもをオートメーションにすれば労働から解放されると安易に考えた俺は先にも書いたが馬としてはよく働いたと思う。どんどん課題をプログラムで解決して給料は時代にそぐわず右肩上がりだった(注釈:今は年金暮らして収入は少ない)

 もらった給料を金に糸目はつけずにバンバン使う俺は色々な人を敵に回し、ついに俺が専門卒で大学をスパイしていることを逆手にとって大学を上位とした学歴社会の言説が書店を東大一色に染めた(それは俺が東大卒の人が書いた本を買うからなのであるが)

 だが、先に書いたように東大は東大にある情報が授業や図書館にあるものではなく受験に勝った人が勉強して持ち寄った知識の総体とでもいうか、そうなら俺は俺が勝っているなら俺も情報処理技術者なので俺の知識があり、相手の狙い目は俺の情報とカネなのである。

 会社はICロックなどでセキュリティはあるが、出てきたところから俺を追うとゲーセンに行って格闘ゲームで遊んでいて、読んでいたのはアルカディアというゲーム雑誌。9.11テロの首謀者がアルカイダなんていうのは多分に冗談で、パイロットも討ち死にで誰が首謀者かわからないと被害遺族が安心しないのでメディアが流したデマかもしれないよなと思ったけど、その時はアルカイダアルカディアが耳から聞くと混同しがちで自分たちが怖がられることになるというところまで想像は及ばなかった。

 少し話が逸れたが、まあ大学の本を読んでも背伸びどころか高校の学参より簡単に思えるのは有名国公立はともかく大学が増えて大学生の総数が増え高校の勉強が足りない大学生にものを教えるには教科書を易しくする必要があるという大学の教職の苦肉の策であって、勉強する気があったら活字の本を買う珍しい若手会社員向けにレベルにあった本がどんどん出版されて、しまいに俺は読書家としてまあまあの教養を身につけた。

 それは大学のシラバスと違って、知りたいことを知っている先生に尋ねて自分が満足するレベルの情報を教科書や授業や論文形式ではなく、一般書籍で教えてもらっただけなのだ。

 やがて、色々の会社が集まってもつれたプログラムコードは整理されて行き、糸が解けるように業務が効率化され、その中心にはコンピュータが祀られた。小説よりも技術書はよく読んだが、マサチューセッツ工科大学の教科書よりもシャープ株式会社の社内文書の方が理路整然としていて読みやすいと思った。

 ここへきて、改めて暇なのでまだ高校の受験勉強を続ける。数学の基礎解析は既に廃止され、現在では数Iとか数IIとかになっていて、多分だけど昔より理解しやすくなっているだろう。受験とは何だったのか。あれは勉強がどうこうというより「大学に入れば人生勝ちである」と思われた時代の混沌が巻き起こした無意味な競争だったのではないだろうか。

 数学でも問題は難しくとも、解は簡潔なものが好まれる。そして数学や論理学を履修した人の頭は難解な古典と違って、案外とシンプルなのだ。もつれた考えを紐解いて、答えへの道筋として他人に記すからだろう。

 ところで俺は辞書を引く。葛藤とは複雑な悩みの事であり、現代文で示される基本的なテーマだ。葛藤と引くと同じような悩みの意味が記されている。では「葛」とは「藤」とは。

 それらは藤の蔦が自然に何かにまとわりついて絡み合っている様を絵的に記すことで人の悩みが絡まっていることを例える言葉であったのだろう。

 解けてしまうと、まるで何事も無かったかのようである。

ゲーム初めはバーチャファイター5

 昨年まで三賀日にゲーム初めとして新年の目標にゲームを据えていました。

 今年はそれに変わりシンガーソングライターとして国語の勉強とギターの稽古を新年の抱負としようとゲームは断つことも考えたのですが、4日になってXBOX360のコントローラをオン。

 ジャッキー武聖から大会優勝(16人トーナメント4連勝)野試合2勝1敗で6勝1敗まで。サラ帝王でドラスマで浮かせてワンパン挟んでダブルジョイントと決めてくる相手に負け。

 なんというかPS2のバーチャ4は「コンピュータがハマるので簡単」というレビューが付いて「参考になった」が結構付いていて、アキラのガード外しを避けないのでそれ起点に確かに勝てるのですが、発生が遅いので立ち会いで何かリードを取ってからとかしゃがみパンチヒット確認して有利フレームからガード外しに行かないといけず、ハマると言っても有段者クラスの能力が必要で。

 バーチャ2からのファンでも「初段の段位認定線がゲーセンみたいで緊張感があり、普段のコンピュータより強くて手応えがある」と楽しんでいたのを書き添えておきます。それよかバーチャ5は俺が4でやり込んだのを差し引いても段位は序盤上がりやすいとは思いましたが「人」「王」「将」くらいになると強いと思います。

 知らないで簡単に騙される人いるなぁと思うけど、そういう差があるから自分が無自覚に勝ち組に属しているとも思えるし、騙される人が悪いかというとそりゃ騙す方に悪意があって騙される方は弱いとしか言えないけど、人間そこまでバカじゃなくて強い人に嫉妬した時にもっと別の人が簡単だって言ってるよとなると「なーんだ簡単なんだ」みたいに安心してやり過ごす。その辺も両々相まって上手に騙す人が賢いなぁと嫉妬するわけです。

 やっているとハッスルして刺激になるのですが、何か狙って失敗すると上手く行くまで狙い目としてひとつの技に固執する悪い癖が、まあ二度狙いくらいで「あ、俺狙いすぎてるな」と気づけるけれど、1回でちゃんと冷静に戻れていないとかの自己分析は出来ますよね。勝ってる時の勘が冴えて色々の技がどんどん決まる乗ってる感じが称号持ちの相手に決まると気持ちいいもんですが。

 スティックではなくコントローラで操作しているので、最初はスティック風にP+GでもK+Gでも同時押ししていたのですが、流石にそこは頭を柔らかくしてK+GはRB使うとかいう風に柔軟な対応をするようになりました。アーケードに備えて主戦場がゲーセンだから変な癖つくの嫌って4の頃は思ったけど、今は家ん中が主戦場。

 カルドセプトというゲームを3DSでやり込む前は「ゲーム機相手にひとりで双六なんて楽しいか?」と思ったこともありますが「ボードゲームするのにメンツ欲しさに相手代を払って遊んでもらうってそれ友達か?」とか「そいつと遊ぶのに本当にいくらの価値があるか」みたいな問いを「友達はお金では買えないかけがえのないもの」みたいなほんわか価値観で考えていたのですが、自身が貴族階級から労働階級になってみた時にお金で買われた労働階級は革命こそしないまでも与えられたお金の使い方とか管理にシビアになることで一定の自由は獲得できる問いう考え方に立脚した時、ひとりコンピュータゲームはつまらないけど「朝起きて満員電車で通勤する毎日よか暇人で暇潰すのにお金使うよりかはマシ」になって、バーチャも同じく。

 その中で、バーチャはジャンケンぽいけど、リーチとフレーム差の有利不利と避けと投げ抜けとダメージ差とまあパラメータは色々とあって技の使い分けもあって、似たり寄ったりな中断パンチキックでも度重なるバランス調整で意味づけとして差別化されてきているので、そのわずかな差に着目して使い分けることも攻略かなと。

 俺はゲーマーでゲームについて遊ぶ時間は僅かになったけど考えるのはめちゃめちゃ考えちゃう。そうすると新年の抱負としたシンガーソングライターへの道はまだ没入度低いと思う。既に出来ていることで満足しちゃってる感はあるし、平井大のギターソロは本人でも別人でも楽曲とパフォーマンス両面で他愛のない一発芸にしか見えない感はある。いや紅白見た直後は「ギタボにソロもってスゲー」とか高揚感あったけど、プレート部分が黒色なの人種差別へのメッセージよね。ビデオだと白馬に乗ってるのとかも。

 その意味で「ゲーム勝つ」って言っても「ぽっちゃり白い坊ちゃんが貧しい人の日銭で遊ぶゲームを負かして何になる」みたいのはカプコンのゲームしてた頃から冷ややかに見られてた思うよ。何になるって俺勝つの好きだしって。

 このブログ書いてんのも上を目指してた頃って書店で売ってる攻略本を熟読しても書いてる人がトップでないことに読んでも頂点になれない不満みたいなの感じてたから、自分で天辺目指して勝った暁には自分で本書きたいとか思ったもんだけど、そこまで書いてみて思い当たる名前がひとりあるんだ。

 そこは勝ったら勝ち方ではなくゲームブックとか推理小説とかの方が読んで面白いみたいな文筆家としての商売と勝ち負け感も別に存在していて。そしてハウツーの形になっていない理論の本は読むのが難しくて毛嫌いされるのも分かるけど、頑張って書いた文を読んで下さる方々から「だんだん分かってきた」というレスポンスが忘れた頃に返ってきて「いや、俺も書いたことガチで忘れてるんすけど」となっている今日この頃です。

 ただまあ、こうしてブログで考え方について触れている時点でもっと付き合ってみたい思って下さる方とは既にコメント投稿とかで話ししていて。俺が誰と話してみたいと言えば中野信子さんと話してみたいと思ってたけど著作を読んだら伝わったこと以上に質問したいこととかもう無くて、まあテレビでマスコットみたいに登場させられているお姿を拝見できたら満足で。知性のある女性が本を書くとき美人との対談形式で写真本にしてるけど本人が頑張ってお化粧やおしゃれをしていたらそれはそれでファンとして嬉しいんですよ。


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