新しい日本語

このブログは文脈が乱れている。そして俺か僕か丁寧語かタメなのか。


色々乱れている中で気をつけていることというのは別にある。日本語の否定というのは「この文章には正しい内容が書かれていない」のように最後に「ない」が来て読んだ順番からすると一度頭に入れたことをひっくり返すことになる。これを避けるために「ない」が来ると対義語を考える。「この文章には誤った内容が書かれている」とすると前述の「この文章には正しい内容がかかれていない」と指し示す所は変わらない。ひねりはない。ひねらないといけないということは、内容がないからだ。


理想は読みやすくて内容が面白いことだ。


てはじめに読みやすく否定は対義語にして難しい言葉は国語辞典を使って噛み砕き、英語は訳語やカタカナにして、残る意味は何があるのか、とすると自分が出せるコンテンツの弾の少なさが分かってくる。ひねりは時間稼ぎであり読者の頭の体操にもなる。しかし要約されて内容が無くなるようなことをひねりまわして話すしか芸が無いなら考え直したほうがいい。


意味も無くダラダラ長く言葉が出る。それを紐解く。紐解いて何か残ればそれが伝えたいことか。素直にそれだけを言えないものか。


消えてしまったものもある。それは俺の素直に言えない後ろ暗さのようなものだ。ニュアンスと言う。言葉を見直して俺は性格もどこか変わってきている。消極的な決定回路が意志的になってきている。そして少しでも中身を持とうとしている。たいして中身のあるヤツではなかったのかもしれない。こじれていることこそが内容。縺れた糸が何か塊の用になっているの同様にこじれそのものが俺の精神の本体だったので、素直になると幼稚園とか小学生みたいな部分がたくさんある。


コンピュータに例えるとシャープ時代の上司は俺をプロセッサだと呼ぶ。周りのヤツはプロフェッサと聞き違いをして教授だと言うのだが、プロセッサというのはコンピュータの演算装置のことだ。他の部品にはメモリやレジスタがある。それらは記憶を司る。何かを覚えていて、思い出してそのまま出す。アセンブラだとデータとコードの関係性と同じことだ。データがあってそれに変換操作をするのがコードだ。脳科学と照らしているのではなく、もっと単純なコンピュータの話。捉えた現象をこねくりまわして他の形にしてしまうプロセッサ。そのまま覚えて思い出すというデータ的な人からは異様な存在なのだろう。


プログラムはデータもコードも合わさってひとつの形になる。プログラマにはコード偏重の人が多いという経験がある。しかし求められるのはデータなのだ。データは現実の一部を数値化したものだ。求められるのは現実か。否、データだけで満足するのが仮想化ではないか。


結論はまだ出さない。


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