ゲームリソース観の変化


戦国無双クロニクルの群雄割拠を制覇。このゲームはシャープの工場にバス通勤していたとき朝のバスの中でよく遊んだ。しかし20分と言う制限では限界があって話半ばでやむなく電源オフしていたな。いま1年ぶりに腰を据えて遊ぶとまた違った面白さが見える。


ゲームのリソース(資源、つまり絵や音楽などプログラム以外の中身)について、たとえばポケモンのようなゲームは草むらでポケモンを取るのに何度も同じ所を歩き回ってポケモンと出会いモンスターボールを投げて捕獲する間に歩いているときの音楽とポケモンと出会ったときの音楽は毎回同じで、また絵も草むらは草の絵が敷き詰められて、ポケモンと出会う度に自分のポケモンの背中と出会ったポケモンの絵を毎回眺める事になる(ドラクエももちろんそうだ)街の人はいつ会っても同じ台詞を話す。


それで、遊んでいる人は同じ画面を繰り返し見ているが、戦う度にお金が増えるなどするので、プログラムも絵も全く同じなのに何かの点数を集めるために遊び続けて、映像的には進展が無い時間が長い。


その点で格闘アクションはボタンを押すとアニメーションで5枚以上の絵が1秒で展開される。だから作る労力で言うとポケモンより何倍も絵を描いているのに遊ばれる時間は短い。そういう贅沢な絵の使い方をしているゲームを遊ぶほうが贅沢だとする考え方がある。ゲームの価格は似たり寄ったりなので制作費が高い方が遊び得だろうと。ちょっと裏方目線ではある。


しかし、ここ数日で絵は1枚でも値打ちのあるものだし、1枚ずつゆっくり眺められるということも値打ちだなと思えるようになって来た。格闘ゲームの絵をゆっくり見ようとするとポーズをかけたりリソースハッカーでブチ抜いたりして眺める手はあるけど、普通に遊んでいたら気付きもしない絵が無数にある。


例えて言うと人の受け取れる絵や音楽の限界をザルにすると、ザルを受けている人にコインの山を滝のように落としているのが格闘ゲームなのだ。到底受け取りきれるものではない。繰り返し遊んだり、攻略本の静止写真で気付くものも多いのだ。


そうすると、ハナから絵を止めて見せているようなゲームのほうが受け手としては便利な部分もある。ただし、料理としてはフルコースだがサラダとスープと全部山盛りで食べ終わらないと次が出て来ないようなゲームはいけない。ドラクエならスライムやドラキーを数回倒したらレベル3まで上がってゴーストと戦えるようになるデザインらしいけれど、その原点と言われるウルティマはスケルトンをウンザリするほど倒さなければならない。この点ウィザードリィはゴブリン、コボルド、スケルトン、バブリースライムとレベル1のザコ敵が4種類用意されていて目を飽きさせない。


近年のゲームは大容量化が進んで、道端の小石や看板などでも精細に描かれているゲームも珍しくなく、映画やアニメがそうであるように一度体験したくらいでは気付かない所まで丁寧に描かれている。その分でゲームを1本買っても征服感が得られないと俺は思っている。ドラゴンズドグマと言うXBOX360のゲームを買って、俺は遊び尽くすのに不可能を感じた。それはそれで良い事だし、俺の人生はこれからも続くのでまたドラゴンズドグマを再開していつかは遊び尽くすかも知れない。だからドラゴンズドグマには言及しない。


そして、今俺はゲームボーイアドバンス初期の作品をネットで買い集めて遊んでいる。丁度いいのだ。ゲームボーイアドバンスは発売当初オモチャ屋に商品が出回らず、ネットオークションの転売の的になって発売日にヤフオクで定価の2割増程度の商品が大量に出品されると言う事件があった。ゲームは面白いものが多く任天堂の力の入れ方は相当だったが、肝心の本体が出回らないのでソフトの本数は伸びずに生産ロットは少なくなり、時間が経ってみると異常なプレミア価格になっているソフトも多い。


よく出回ったものはクチコミなどもあって続編が出るが、そういう不可抗力で泣きを見た名作と言うのもあって、それは現在のパソコンのスペックやゲームの制作費からすると古いゲームでも、遊び応えの丁度よさという点で俺は見直すべきだと考えている。本にしても百科事典や六法全書と言うのは価格と内容量を比べるとお買い得だが、ラノベのほうが読みやすい。


やはり今のゲームは行き過ぎていると思う。凄すぎてつまらないのだ。所持品と言うのは所有者が主でモノは奴隷でなくてはいけない。PS4なんてマシンが主で遊び手が奴隷だと言ってもおかしくないような内容だと俺は考えている。なんでゲームの言いなりになって人間が仕事をしないといけないんだと思うよ。ゲームが人間の言いなりになるサクッと遊べるゲームが欲しい。


ヒトコトでまとめると「やらされてる感ハンパ無い」ですわ。


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