今日のカプエス2(もうやめて!相手のライフはとっくにz)

ブロッキング草薙京八神庵ロレントで先鋒を庵やロレントに変えてのキャラやりこみ。
対戦をロジックで語る人もいるが、映画ブレードランナーの原作ニューロマンサーが書かれた時代にロジックはロジックであるがゆえに必ず先読みされるということが分かっている。だが、ゲームの対戦をしてみたからといって相手の人間が全て分かるわけではない。ロジカルに動く人がロジカルであるがゆえに、そのロジックを上回って勝った場合に相手のロジックを単純だとバカにしてはいけない。
してはいけないと言いながら、俺自身にも勝って慢心して相手を馬鹿にする発言をしていた時期はあった。それに対して、バカにしてはいけないと諭すのではなく、同じことをやり返して言葉を真似てオウム返しに言い返そうとするから、今度はそれをさらに上回ろうとするそういう状態をイタチごっこと言う。オウム返しもイタチごっこも辞書だけでは意味がわからないかも知れない。オウムという鳥がいて、九官鳥でも良いんだが、音を聞くと鳴き声でそれを真似る。賢い鳥で人間の言葉まで覚えて鳴く。ただし、意味は分かっていない。そういう風に言われたことを意味を咀嚼せずにそのまま言葉として言い返すことをオウムのような鳥と同じことで人間の行動としては知性に欠けているという意味で「オウム返し」と表現する。イタチごっこも同じようなことで、イタチは二匹いると追いかけっこをして、抜いたほうのイタチが負けた方のイタチの尻尾を追って先後が入れ替わり、どちらかが飽きるまで追いかけっこを繰り返してくるくる回る。思えば俺は言葉でのやり取りでオウム返しをする人を馬鹿にしながら、自身では格闘ゲームでイタチごっこをしていたのだ。
ゲームに夢中にならずによく論考すれば、格闘ゲームの論理をどんなに突き詰めても論理の出口がなく、ただ循環しているだけになるポイントがいくつかある。しかし、そもそも論理を競うために作られたルールではなく、ディスプレイにキャラクターの絵を表示させて動かす遊びにプログラマーが遊びになるようにルールを忍ばせたものであり、隠されたルールを遊びながら解き明かすのも面白さのひとつだし、ルールを理解して充分に操作に習熟した上で勝負して勝ち負けを示すなら論理で上回ったと言えるが、ルールも把握していない人を解剖学的に理解した人が負かしたからと言って、馬鹿にするポイントとして相手の人格に関する部分を指してはいけないと近頃では思う。
確かに馬鹿だと思う。ルールを理解したわけでもなく、その上で充分に練習したわけでもなく、相手が誰とも知れず、ゲームセンターという反社会的な遊技場で100円入れたら楽しめると思って負けて腹を立てたりしていたら、確かに馬鹿だ。それはそういう意味で馬鹿なのであって、決して対戦相手に読まれたから読んだほうが賢くて読まれたほうが馬鹿というのは違う。
では何故、八神庵ロレントを練習するのか。何かこう、まだ満たされていない部分があって、それをゲームのせいにしてんですよね。


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