理不尽ってのはどちら側の理が尽きないのだろうか

若い頃のほうが理不尽に思うことは多かった。理不尽とは辞書をひくと「道理に外れていること」だが、字面どおりに読むと「理が尽きない」ということ「筋が通っていない」と言い換えたほうが良いだろうか。これは、受けての問題である。小学校の時は学校で勉強を習い、社会科で平等をならって道徳で守るべき道をならう。そうすると家庭に返ってお姉ちゃんのほうがお小遣いが多いのが不平等だとか、誰かがゲームでズルをするのが良くないとか、習ったことを現実に当てはめてみると自分の思っている筋とは外れていると怒ったりする。
しかし、世の中にもし真理というものがあるならば全ては真理に沿って進行していることになる。仏教で言う因果のようなものだ。悪いことをする人がいても、その人が悪霊に取り憑かれて悪いことをした、みたいな理解でなく生い立ちに於いて誰かから悪いことをされてそれを覚えてしまって真似をしたとか、ずっと辿っていくと本当の原因が見えてくる。しかしまあ、人が一生生きるくらいの経験量では世界のすべてを理にかなうところまで知り尽くすことなど出来ないだろう。お釈迦様なら出来たのかもだが、その後も歴史は仏法に沿って動き続けているとはちょっと考えにくい。世の中にはひょっとすると真理がある。そして物事はその真理に沿って動いている。だが、人が理不尽という言葉を口にする時は相手が道理から外れていると非難する格好で使いつつも、自分がなにかの理を物理とか道理とか心理とか論理とか生理とか数理とか、とにかく自分が信じている「これで全て自分の意のままである」と思っている理から外れたことが理不尽なのだ。
繰り返すが、恐らく世界は真理に沿って動いている。だから自分の思う理ではないことが起こったとしたら、外れているのは自分のほう。とても悔しいことだが、それが現実なのだ。ではそれまでの理とは現実ではなくて何なのだと言うと理想である。思っている理と外れたことを理不尽と言うなら、それは「理想と違った」ということでしかない。俺みたいに人生なんて意味がないゲームでもして暇潰すかって人間よりは理想に燃えている方がいくぶんマシかも知れないが、その理想は本当に実現した時に全ての人がくまなく得をするものなのか。
相手が損する理想なら、そんなものいらない、邪魔してやろうという人だって現れるだろう。そのたびに自分が主人公だと思っていると「どうして邪魔されるんだろう、手伝ってくれないんだろう、喜んでくれないんだろう」と思ってきたことが恥ずかしいくらいに、自分の理想が既に今何かで得をしている人を損させる理想なんだよな。もちろん、得をする人がいるなら協力を得て団体戦をすることも出来るかも知れない。しかし、俺の理想は誰得であるのだろうな。誰も得をしない理想なら、燃えているよりひとりで部屋でテレビゲームしてくれるほうがマシだって考えることも出来るわけで。それが案外テレビゲームの用途として理にかなっているんだよなぁ。
一方で、俺には邪魔をする相手が現れてそれと戦い打ち勝ちたいというバトル願望があることも認めないといけない。何かやりたいことがあって協力者や敵対者が出たというわけでなく、わけなくゲームの腕を磨いて索敵するとどこにも敵が見つからない。けど見えない所からライフルで打たれて突然死んだりするわけでもない。平和なんだよな。そしてこの平和がどんな理によってもたらされているかと言うと、身に受けたと思える理不尽の理想とのズレは小さなもので、案外と理想的な生活かもしれないなと思い直すわけだ。


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