たとえば最近の俺はゲーム雑誌を取っていないが

人生の意味は人が生きている間に出会った事象に対して思ったことそれ全てであり、それらを総括して客観的に付与される意味はどこまでも他人から見たその人の意味でしか無く、その人が感じる意味ではない。最近の考え方。

ところで俺は25歳の時に北米にゲームの大会に行き、そこでの催しが想像よりヘボく、優勝したことが国内の雑誌では偏向報道されていて、その後に自殺未遂をして精神病と診断されて実家に帰ってきたわけだが、冤罪逮捕された人の釈放が老年期であったみたいに俺が健常者として他人と意思疎通できるようになるのはもしかしたら、そういうレベルなのかもなと思っている。

自分の体験がマスメディアとかの織り成す世界観と著しい違いを持っていて、その是正というか照合をする時に体験を説き続けて世界が変わるのを待つか、全て夢だったと思って人生をやり直すか、あるいはそれ以外の社会復帰の道はまだあるのか模索しているところだが、例えばゲーム大会に優勝したからゲーム雑誌はもう取らないての、多分最初から取ってない人の世界観からしたらプロゴルファー猿を読んで旗つつみの実験に生涯を費やした人の話みたいなものかもしれないなと思った。

もともと、ゴルフなんて俺は退屈だと思っている。それに夢を与えるプロゴルファーに自分がなるということは子守唄を聞いて眠っていた人が不眠不休で絵本の読み聞かせをする側に回るようなものだ。

ゲームに専念する前には雑誌を取ったり食べ歩きをしたりお小遣いで出来る色々なことで小さな満足を得てそれらを全部買い続けるために働いていたんだよな。それらを全てかなぐり捨ててひとつのゲームに没頭したら、そりゃハイスコアの全国一位でも出るわけだけど、同じゲームをずっと繰り返している間にスーファミから64にゲームキューブWiiにswitchにと時代は変わって、それらを遊ばずに重装機兵ヴァルケンで全国一位になっても雑誌に乗せてもらってそれを友達に自慢するくらいしか楽しみはなく、それって結局は雑誌のハイスコアコーナーを読んで与えられた夢でしか無いというか。

レベル40の勇者が敵の幻術士に仲間のレベル3の僧侶を惑わされて、勇者がその僧侶を攻撃して目を覚まさせようとすると自分の攻撃力が高すぎて僧侶を倒してしまう。じゃあイチかバチか幻術士を勇者ひとりで攻撃して倒せよと。

思っていたら幻術士が仲間を呼んで気がつけば退路まで絶たれている。幻術士、強かった。ゲームオーバーなのに人生はまだ続いているような気がする。

いやドラクエXIFFXIIも買ったけど封も切らずに部屋の隅に放って有る。そういう話をしていると「手塚治虫火の鳥を読め」と言われる。マンガを読めばなにか変わるのか?ブッダブラックジャックなら全部じゃないけど読んだぞ?

火の鳥を読む文庫代で明日の飯が食えるんだよ。多分明後日も食える。では何のために生きている。答えは火の鳥を読めば分かるかもしれない。しかし答えがわかったら明日の飯が食えるか分からなくなるかもしれないのだ!


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