「読まれまい」とするのと「ゲームで勝つ」のは微妙に違う

将棋と格闘ゲームを一緒くたに例えるのもどうかとは思うが、対戦型のゲームで相手に手玉に取られて負けたこと、もしくは反対に手玉に取って勝った経験はあるだろうか。

例えば、ジャンケンをしている場合にもし手玉に取られるように負けていたら、手玉に取られている状態の手から残りのふたつに変化させることが出来るだけでアイコもしくは勝ちになる。

格闘ゲームバーチャファイターのようなルールだとジャンケン的なところもあるので、相手に悟られないように手を捻くれさせることだけで相当に良くなる。

だが将棋はどうだろう。考えると、将棋で悟られまいとするだけなら端歩をいきなり突くとか王将や金将を上げる手が浮かぶ。確かに読み筋から外した手はチェスクロック型で相手の思考時間を奪うには有効かもしれないが、勝負において勝ち筋の太い手と細いては明確に存在して、相手の読みを外すだけ外したとしてもそれが絶対値的もしくは期待値的に細い手だとそれだけでは勝てない。

割と今更なのではあるが、俺は子供の頃から人に読まれて手玉に取られるのを嫌って生きてきた。母親も子供の意のままに操るのが好きなタイプで、いい子にしていれば褒美をもらえるのだが、褒美に預かるよりも母親の意図から背きたいというのが自分の自由意志を獲得するということだったように思う。

お笑いにおけるボケもベテランから習った定跡でなく、誰も付いてこれないような発言をするのが面白いと考えていた。だが、それで上手く回っていたのは自分の周りに自分では気づかないながらもう1枚上手がそっとそばにいて、それを面白く突っ込んでくれていたからなような気もするんだ。

反対に、勝とうとする、狙い通りにやろうとする、得をしようとする、おいしい役を取ろうとすると、狙い通りに驚くほど上手いこと行くこともあるのだが、なんとなくそうなるとさらにそこからもう一歩進んだ所でオセロがひっくり返るように罠にはめられているのではという恐怖感がわいてくる。

なんとなくだが、チェスボード上の割とどうでもいい部分でなく勝負を決める立ち位置に関係のあるところに自分が陣取っている、そしてその状態で次の手を読まれているという感覚があるのだが、これは子供の頃の読まれていないけど勝ち目の無い手よりは幾分かまともな考え方に自分が寄って来たからなんだと思っている。


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