瞑想とデカルト

なんとなく俺の中で西洋のが東洋より進んでるみたいのがあって、瞑想をして無我の境地を目指している人に「無我になってもそれを観察している主体はあるわけだから、デカルトの我思う故に我ありの再発見にしかならないんじゃないか」という話をしたんだけど。

それでも「何も考えないでおこう」と思って瞑想すると我すらも感じない瞬間に到達することはあるよな。それが無我の境地かどうかは分からないけど、思考をリセットするような効果はあると思う。我思う故に我ありだと意味分かるけど原文のコギト・エルゴ・スムだとスムで「我あり」って意訳だよな。つまるところ、まだというかいつからか俺の主体は周囲の人や学校の勉強や読書からの日本語中心の認知で埋め尽くされていて、言葉も知らない赤子の気持ちくらいまでさかのぼってものを見つめられるかとか、そんなことを考えた。

俺の生まれ年は1978年でガンダムの放送が始まった歳。だからガンダム世代ではないはずなんだ。なぜなら幼稚園から小学校くらいでテレビの話を分かるようになるくらいが世代を形成するから。それで従兄弟が4歳上でガンダム世代。そのお古をもらってテレビは再放送か何かでちょっと見て、ガンダムのおもちゃで遊んでいた。そのおもちゃの形と幼稚園くらいでお絵かきした「ヒコーキ」と題された絵がコアファイターガンタンクサンダーバードあたりのモチーフが見られて、多分そういうものが俺の原風景なんだろうと思うの。他によく覚えているのは居間の大黒柱の木目をずっと眺めていて、いまでもその柱に近寄ると落ち着く。

TV番組はどんどん流れるし、子供の時の部屋と今の部屋は別で、俺が子供の時に持っていたおもちゃは母親が弟にあげてしまった。その時に親父は「それはワシがキョウスケに買ってやったものや!」と一旦守ってくれたが「そんなんもう遊ばへんのやからいいやない」とされてしまって、俺はファミコンで遊ぶようになっていたから、俺はいつからか自分の大事なものはファミコンだと思うようになっていたけど、近頃はPS2ガンダムなどしていると昔の記憶がふとよぎることがあって、落ち着いてきた。ガンプラのおもちゃやウルトラマンのフィギュアなどもどこかに仕舞われているかもだが、同じようなものを買い揃えて部屋に飾っている。

それで辛かった頃のことでなく幸福だった幼稚園時代の記憶を伴った自我によって現在を観察し直しているので、最近は部屋でぼーっとしているだけでも幸福を感じられる。

そして、ときに余暇の過ごし方について、より幸福量の多いとか密度が高い余暇の充実こそが幸福量であるというような考えに行きかけるのだが、そうでなく食事の質と余暇の充分量が幸福のバロメータであるようにも思える。幸福度の高いとか低いが余暇の質で決まるのでなく、食事があり、余暇があればそれでよく、仕事は辛すぎることがなければ余暇を自発的な仕事に変えて生活することもありだと考えるようになった。


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