カイジの限定ジャンケンを思い返すと

格闘ゲームの主体となるゲーム性というのは分かりづらい。

もともとアクションゲームというジャンルに分けられて、コンピュータの画像処理や音声処理をハードウェアに実装して、ゲームプログラムと画像のメモリなどを交換可能に開発された業務用基盤で、ファイナルファイトが売れたからそれに乗っかる形で遊び方を変えて作られたゲーム。この成り立ちには既存のゲーム基板でどのような表現が出来るかということが企画に先立ってあり、ゲームをゲームとして作ったのでなくデジタル娯楽の一環として作った中で、人間同士が台を挟んで遊べるようにおまけを付けたらそれが偶発的にメチャメチャ流行った。

そこからさらにそのメチャメチャ流行ったゲームがジャンルとして発展するように新基盤になっていくんだけど、まあコンピュータソフトとしてハードウェアでやっていることも論理的にはソフトで出来る。既存のゲーム機にも格闘ゲームは波及した。

それを遊ぶのはコンピュータに強くなくても台に据えられたレバーとボタンで直感的に操作して遊べるからだが、ゲームの勝敗を巡って暴走族同士の抗争のようなものが起こり、それに秋葉原や大阪日本橋のデジタル屋が加わり、その抗争の果てには野次馬のネット煽りも加わった。

そうなると、ひとつのゲーセンでゲームを遊び、家でパソコンでネットする。この主観的観測範囲だけで格闘ゲームを巡って世界で何が起こっているのかまでは分かりづらい。

この混沌とした世界はともすると100円玉の取り合いでもあり、漫画カイジの世界のように結託や裏切りを伴うマネーゲームであったのかもしれないが、カイジが漫画として読めるのは読者にカイジが何かをしている時にその頃一方他のプレイヤーや主催者がどんなことをしているかという視点を加えて俯瞰的に船の中を描写しているからであって、こと格闘ゲームが世の中にどのように扱われ、誰がどこで何をしているかを網羅的に掴むことは出来ず、メディアで広報されていることをひとりで跳ね除けることもまた難しい。

幸いにして、17年前に渡米して大会のあと深夜までゲーセンにいて現地の人に空港まで車で送ってもらって帰ってきて、俺は生きている。自殺に追い込まれた人もいたし、渡米して滞在中にビザが切れるまで向こうで捕まった人とかもいるようだ。アメリカのことは分からない。東京のことも分からない。行っても外国人、おのぼりさんだ。

ただ、ひとり家でブログを書き、またPS2カプエス2を遊んだ。それで、以前の気持ちを少しは思い出せる。全ては見当違いだったのかもしれない。会社帰りにゲーセンで遊んでいた時も俺はネットでカーメンというハンドル名を使っていたが、現実社会でも対面する人からカーメンさんと呼ばれていた。異常なことだ。インターネットで知らない人に住所や個人情報を教えると悪用される恐れがあるからしてはいけないとかいうことを、全て何も恐れずに実行していた。

だから、俺が俺を取り巻く世界のことを理解出来ないでいながら、ネットで遠くから俺のことを特定して悪巧みとともに近寄ってきていた人間も多いのだろう。あの頃は、ゲーセンで遊んでいると色々の人が対戦相手として遊びに来てくれて、面白くて友達がいっぱいできたという幼稚園のような世界観だったのだが、その後同じ名前や連絡先で連絡が付く人がどんどん減っている。

近頃はそういう世界は全て虚構だったかのように思えて、連絡が今も付くところの知れている数人の仲間と、親父とふたりの生家でPS2で遊ぶだけである。

あれは何だったのか分からないが、コンピュータと戦い、裏ボスもコンティニュー無しでレシオ1キャラで倒してしまえるようになった。それでも、ゲーセンに行くともしかしたらもっと強い人と当たるかも知れない。そんなドラゴンボールみたいな世界観だった。

それが、東京ではもう行き交う人の数が違いすぎて、街中である程度答えが出ていて、ベテラン作家がコンクールの作品からネタだけ取ってリライトして自分の本として出版するように、地方のレアキャラとして何らかのネットワークで見張られていただけなのかもしれない。

ちょうど悟空がサイヤ人編に突入してスカウターで見られる感じだ。俺のストIIドラゴンボールはそこらへんでゲームオーバーになっているんだと思う。コンティニューすれば、どうなるか。

接近戦をしようにも、ゲーセンまでノコノコとボスが出てくることがないなら、2画面でこっちの画面からかめはめ波を打ったらどうなるだろうとYouTubeなども始めた。もう1個の画面が俺の主観からは見えないので、誰かに実況してもらわないとかめはめ波が当たったかどうかも分からない。

しかしまあ、俺の世界はそこそこ平和で、毎日昼飯にドライブスルーのマクドを食って、できたてお弁当の晩飯をダンボールでディスカウントストアで買ってきた缶のクリアアサヒを1本開けていただくのである。

そのメシとメシの間があまりに退屈なので、またゲームをする。その繰り返しの中で、もっと上手くなることを目指す時に修行は修行中の向上心から来る楽しさで自己完結できれば最高で、それが純粋なサイクルでなく名誉や賞金のインセンティブを与えられた手段としての戦いに向けての修行からなにかもう少し優越感のあるステージに入っている。

俺が俺の内的理由でゲームに臨むなら、誰が何をしても邪魔は出来ないはずだ。いや親父がメシに呼んだり子供やペットがコントローラを横から触るみたいな邪魔は可能だが。

レースゲームのタイムやシューティングゲームのスコアのほうがネットで記録だけを比べてオフライン同士でやり合うには向いている。ただし、その勝負ではコンスタントな実力なのか最大瞬間風速だけを求めたリトライの繰り返しなのかみたいなところが分かりづらい。そのへんのことに細かく拘ってクローズアップする能力が格闘ゲームでどれほど生きるのか。

ただ、今よりもっと丁寧にプレイすることは出来るはずで、1日1回位なら集中力は持続するけど、1日2回になるとすでに飽きや気怠さが出てくる。ムキになっても同じシチュエーションは再現しないところが難しいところだと思う。

ただ、真剣になれるか。たかがゲームに。本人の心構えとしてはそれだけでも充分。

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