「ときど」もう1冊書いたのね

格闘ゲームをしてブログを書いてきた俺は「ウメハラやときどの本など読んでたまるか!」というつまらない意地を張って読まないで過ごしてきたんですけど。

しかしいい加減負けを認めて謙虚に学ぶ姿勢を見せるべきだ、何故ならウメハラとゲーセンで対戦して千円両替して1回勝ったみたいな勝ったと大会を連覇するのではスケールが違いすぎるし、そのスケールが周りの人が神輿に担いでいるだけでなく本当に努力で手にしたゲームの腕前であるのなら、どうやってその堂々巡りの博打のロジックを打ち破ったか知りたい。

身近なところでは、井上がEVOを取った時は「大会で当たりそうな強豪にひたすら張り付いてひとりひとりの癖をメモに残して対策した」とか、それとは反対にいづがストIII3rdのまことで闘劇に勝った時には「大会の前に色々な人と対戦する間、真の狙いは大会で勝つことなので、ひたすら同じ動き唐草狙いを繰り返して、相手がそれを何で返すかを見て反撃を喰らい続けておいた」というような話があり、まあジャンケン運ゲー。ジャンケンで本番で何を出すか考える時に前に当たった時にチョキしか出さない人を装い、グーを出させてパーを出した、みたいな話ではあるのだが、実際にゲームをジャンケンであると捉えている人は少なく、多くの人がオートマトンのようなフローチャートで動きを決めていると考えて、フローVSフローに夢中になっているところを最初の契機となるジャンケンから一気に勝ちきったという話ではある。

現実問題、それで勝っているのは1回になる。ウメハラは勝ち続けている。それは1回取って得心して辞める人が多い中で続けたからで、介護や厨房の仕事をして人生どんつきになったウメハラがプロゲーマーという活路を見出したのはまだ分かるのだが、東大に入るために勉強するのって、普通は人生のプランニングに於いて若い時に勉強しておいたほうが後が楽になるという計算で、総計すると若い時に勉強して給料の高い仕事についたほうが人生の苦労の総量としては青年期以降が楽になるからだというような論理や計算があるはずなんだ。

そういう意味では、ゲームをするというのは本当は努力ではなく楽しみではないだろうか。少なくとも、俺の話など誰も聞いていないとしても、俺は楽しみとしてゲームを選んでいる。

そのへん、努力を努力であると説得するだけのどういう取り組みをして、それが論理的に結果に結びついていると説得しうるものなのかと考えると、ときど本も読んでみたいのだが、そのためにはお金が必要で、そのお金の総計によってときどの生活がさらに楽になるなら買わないで古本屋で立ち読みするくらいで良いかなと言う気もする。

あとウメハラ本も新書として発売されたので今更に何処の出版坂見たら小学館だったので、格闘ゲームでなくカードゲームのプロになった人が「子供くらいは上手に騙さないと務まりませんよ」と話していたのをちょっと思い出した。

子供だましの手品の種を見抜いても手品が下手で子供にして見せたらそれが子供が手品の種を見抜く契機になって、騙せるほど上手くやれる人の方を子供はかえって尊敬するようになる、みたいなミスターマリックと俺と親父の関係性を思い返すのであった。


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