大和郡山市には大学がない

俺の住む奈良県大和郡山市には大学がない。

小中高はたくさんあって、県下には県立医大と奈良教育大と奈良女子大があるのだが、市にはない。そして市の多くの若者は大学に通るということが街から出ていくということと同義であり、大和郡山市には大学がないので大和郡山市で遊んでいるということは大学生ではないと見做され、大学がないのに遊んでいるということは勤労の義務を果たしていないということから共産党の言い分である「働かざる者食うべからず」の論理で攻撃されるがゆえ、恐々と家から出られない「働いていない若者」を何人も知っているのだが、皆はだいたい大家の息子や娘である。

ところで、市に大学がないとどんな事が起こるのかというと、トラブルメーカーとなる学生がいない分、主婦にとっては住みよい街であったりするようだ。そこで住み良いと分かると外から土地を買ってマンションやアパートを建てようとする業者が介入してくるのであるが、町人は京都のような風致地区の高い建物が建たない景観を持った街づくりがしたいと願っているようである。しかし、そういう協定を結んでいても、大学もなければ法務局もない。わざわざ奈良市の高畑町にある法務局まで協定書を持って認めてもらわないと外から来た業者に街のルールを破られても対抗できないということが分からないのだ。

これは法律を知らないからであるが、市に大学がなく進学した若者は街から出てしまい、高齢者に学がない事も原因なのだが、お家賃暮らしをしている大家さんばかりの街で、勉強して働かないで暮らすことが別に悪いことではないという者が居座っては自分たちの居心地が悪い。何も知らないものから大家であることを隠して寂れた商店街で静かに暮す以上は子供には自立して町の外に出ていって欲しいわけである。これで静かな暮らしを守り合っているのだ。

大学生は街を闊歩して遊ぶ。だから大学は無いほうがいいのだろう。だが、その住みよい町を外から来たものから守るためには、法律の知識がいる。

まず痛感したのは商店街がまちづくりで設置した金魚電話ボックスの問題である。もともと、金魚電話ボックスという不思議なオブジェを街において、それに類するものを町の若者がどこかで見たことがあって、真似て作ったら著作権法違反だと訴えられて、著作権は認められずこれは俺としては町のものなので町費を取られると損だから、町に勝ってほしいと著作権を認めないという側に立って戦うしか無いと思ったのだが、よく考えると電話ボックスって著作というより建築物なので意匠登録の問題になるのではないかとこちらの弁護士に伝えたのだ。

これは俺が若い時に建築物の構造解析の仕事を手伝っていたのでたまたま知っていたことなのであるが、意匠登録というのがどのようなものでどういう手続で登録してどうすれば勝てるのかという算段を持つ前に、聞いた単語が新しいから親父が喜んで「いしょうとうろくや!それゆうたれ!」と意気込んだら、相手の芸術家に先に意匠登録をされて負けかねないという情けない局面に差し掛かっている。

ちなみに今、俺の住む家の隣の土地が不動産屋に買い取られて三階建てのアパートが立ちそうなのであるが、これにも協定書で二階建てにして下さいと嘆願したらその協定書は法的拘束力ありますかということで負けそうになっているのであるが、民主主義の世の中なので届け出の後先でなく、ちゃんと法務局を通せば多数決の論理で二階建てに抑えられないものかと。

そこでこそ多数決だろと。だいたい、街の人は多数決の使い方として少ないものイコール弱い者いじめの論理で使うのだが、法律と持ってこられると泣き寝入りである。ここがやっぱりこの町には大学がないのだなとあらためて思うところである。俺も大卒ではなく専門卒ではあるが、弱いからこそ強いものに法のもとの平等で持ってして戦うのである。

そうは言っても、街の人には俺は引きこもりのパソコンオタクで得体の知れない怖い人だと思われていて、話す糸口がないから親父のところや自分の家のそばに厄介事が舞い込んできてようやく重い腰を上げるのだ。貧乏な商店街で市場から野菜を買ってきてスーパーよりもちょっと安く売る、みたいな企画ばかり持ち込まれるからもうこんな貧乏な町イヤだと思ってたけど、実はみんな大家さんでお金貯めて息子や娘を大学にやって上手く放り出した後に自分たちはお家賃と年金でほそぼそと生きていると思ったら、若い頃に会社づとめとかの仕事をさせられた以上、やってられるかと逆恨みになってしまう若者の気持ちも分からなくはない。

ただ、迫害しないで味方として戦う気があるのであれば、俺にも出来ることはある。


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