「コンピュータは0か1しか分からない、従って思考の方法は排中律である」「2ビット使えばいい」

円周率が何億桁か何兆桁か、よく知らんがもっとたくさんか、求まったらしい。

そして計算機で持って実数で持てる数字がいくら大きくなっても無理数になるものが有理数で割り切れる分量までしか求まらないことから、無限というものは存在しないという立場を取る物の考え方がある。

しかし、人間の想像上には無限は存在する。0か1のどちらかでは割り切れないということはコンピュータには出来ないのであろうか。俺は「できる」派閥の人間である。

ちょっとC言語の考え方になるが、数というものを表す時に初心者のC言語では整数型や実数型を使うのが一般的である。整数型の無限は一般的にINT_MAXマクロで表されるビットいっぱいの数であるが、それを実数型を使えば指数でかなり大きな数を表現できる。そのかわりにあまりに桁が大きくなると下の方の桁落ちで誤差が出る。

スペースシャトルを飛ばすくらいの事業でも、そのくらいの桁で十分計算があるのであるが、もっと何光年も先の天体を考えると、もしかすると誤差が大きくなりすぎてダメかもしれない。それでも、整数型や実数型にこだわらず、数に有理数以上の無限とか虚数とかいう考え方を計算機に持ち込みたければ、単に表現するビット数を増やして、構造体として無限フラグ、虚数フラグを持つ数学的に排中律を持たない「まだ求まっていない」というブーリアン値を持った構造体の数を定義して、抽象的クラスのメンバー関数として無理数を扱い、それ以外の部分を有理数として演算していくことは可能だと考える。

ただ、どこかで無理数が計算に絡む時にはデバッグアサーションとして「いまコンピュータも決めかねています」ということを人間にアサインしなくては暴走することになる。

これはちょっと昔のウインドウズにOKダイアログがやたら多く、スマホのアプリでもお金を使うときやログイン認証などでやたら割り込みのポップアップが表示される問題と似てくるだろう。

そういう風に考えていくと、排中律を定義する論理的思考の方法ではコンピュータは自動思考機として機能するのであるが、排中律を認めないとなると決定に他者依存性を持つので書き出したこととは矛盾するが、その思考法のコンピュータはもはや計算機ではなく思考補助装置と化してしまう。つまり公文式タブレットこどもチャレンジみたいなコンピュータに成り下がる。

そしてそれらには一定の需要があることから、そういう装置にも一定の意味はある。俺が考えるまでもなく、黙ってそういうコンピュータプログラムは設計製造されているのだ。

まあ、まだ俺も書きながら考えを保留にしている部分がたくさんあるから、こうして適当な文章が書けるのである。排中律を認めないと唯今的な思想、過去も未来も存在しないという思想に突き詰められるのではないかと唱える人がいるのも分からなくはないが「いま」を認識するのも「い」と「ま」の時間の流れを微積分的につないでいるわけだから、コンピュータも計算の過程で電気が通電していく途中に0と1の間を取ることは有り得る訳で、過去も未来も認めないと画面からLEDが光って人間の視界に飛び込み結果が見えているということも画面と視神経と脳の時間に伴った理解という進行の総括的俯瞰的な意味認識だ。

そう考えると、過去も未来も他者も懐疑的であってもいちどはそう認めてから微分して疑っているようなものだと捉えられないだろうか。素直になると、疑う前にいちどはその実存を認めていて、実在論から出発して頭の中で屁理屈にしているだけの話であり、それは咀嚼なのだ。

そうしてミクロに咀嚼することで、瞬間が密度を増し、世界が分解能を上げた分だけ広く感じるようになるのである。反対に熟考するより体験を増やすとマクロ的に時間が積み重ねられ、広い世界を内包的体験つまり過去としてインプットすることが出来るのだ。

まあ、ここまで話を展開してしまうと当たり前で意味のない近代哲学と大差ないのだが。


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