デッキからは入れたカードしか引いてこないという確からしさ

昨晩は再現性の科学が確率という詭弁を弄するのが気に食わないという話をしたが。

それでも理学から考えると不確定性原理のように見ていることは認めても背中で何が起こっているのかは目ではわからないというような立場に立った時に学問で確からしいことを求めようとした末に分からなくなってしまうケースも有り得るとは思うんだ。

そういう意味で、俺のマジックザギャザリングの研究は山札が裏を向いているからといって引いてみないと分からないのではなく、自分でデッキに入れたカードしか引いてこない。

40枚ないし60枚を全て例えば「山」にすると確実に「山」を引いてくる。それぞれの山は違う山なのかもしれないが、ゲームのルールに基づいて抽象化された同じ山なのだ。

こういう「確からしさ」に立脚していることは間違いが無いのである。

ゆえに個々のカードを引いてくる確率は同様に確からしいわけだから、土地であること、1マナであること、2マナであること、3マナ、4マナ、5マナ、6マナまでのコストに着目して丁度使い切るように点数を付けてデッキに投入して撹拌して取り出してなるほど良く回るという実験を繰り返して楽しんでいるのだ。

もちろん、そんな遊びが楽しいのはカードの絵柄や文言が芸術性とユーモアに満ちていて繰って手札に来たものを眺めているだけでも楽しいからであるから、勝率とかを考えるときと、繰って手札とするなら好きな色や好きな絵柄であることとゲーム中の効果として勝つために有効であるかは、恥ずかしいことにいつも天秤にかかっているのだ。

そう考えると、ゲームで勝って賞金を得たらその賞金で何が欲しいと問と答えをぐるぐる掻き回して、賞金というインセンティブに騙されながらもカードを繰って手札に引いて眺めている時間こそが結構に幸福な時間なのだろうな。