痩せ我慢の清廉潔白はどこかで破綻する

魔法が使えるようになりたいと子供の頃から願っていた。

現代社会では魔法は書物の中にその表記が残っているが、神秘について考えるときに聖書すら読破できない人間に図書館の本すべてを読破することなど到底敵わなく、隠すまでもなく魔法もまた公然と存在しながらも普通の人間の五感や感性ではその体系を一覧的または統括的に理解や把握することは不可能に思える。

カバラ秘術が22の文字で書かれていることと国語が50音の平仮名で全て書けるのはとても似ている。もちろんアルファベット26文字でも良いのだが、これらがコンピュータの2進数を便宜的に16進数で読んだりプログラムにアルファベットを使ったり、最近ではコメントなどに仮名や漢字を使うことさえある。

わざわざ魔法など使わなくても、結果を得る別の方法がたくさんある社会だ。つまり魔法が使えたらと願うのは自分の欲求を満たす方法が思いつかないか、あるいはわかっちゃいるけど面倒くさい時だ。

魔導書グリモワールが存在した時代に於いても、庶民が求めたものは一攫千金の魔法と色恋沙汰を解決する魔法だったのだろう。

しかしそんな魔法がないわけではなく、大金という漠然とした概念そのものが筆記された契約書や紙幣への信仰的価値から来る魔法のようなものである。そして姦淫の欲求が満たされないのは婚姻者が不倫をしないように、未婚者が相手を自分の意志で選べるようになるために姦淫がアンチマジックで封じられているからなのである。

つまり魔法が無いというよりは魔法で能力を封じられた奴隷階級が庶民なのである。

俺は自分の欲求をある程度満たすことで魔法に対する切望感のようなものは無くなったが、今でも絨毯で空を飛べるなら5万円くらいは払っても良いなと思ったりはする。

ただ、魔法を人心掌握のために使うなら、その手綱の取り合いこそが人間関係の起こりであり、人間が人間を操るのは魔法使いより王族のほうがお金を持っていて、お金を取る魔法がないから王様を魔法の虜にしてお金を取り上げるようなサービスが存在する。その先には機械による完全な五感の満足もあるような気がしている。魔法の絨毯という言葉も千夜一夜の聴覚からの想像の掌握のようなものと考えている。

俺は人が宇宙の全てを理解することは無いと思っているが、人のすべてを満たして骨抜きにする機械のようなものは着々と作り進められていると考えている。

魔法の究極的な目的を考えたときにそれが人生の目的となり、善が残り悪は消えるカバラの神秘は論理的には残ったものが善であるという答えに帰結すると考えた。

今の所はまだ俺の自意識というやつは残っている。だが目的のようなものに困窮している。

五感を満たしてもなお、想像の世界をすべて満たすということは叶わないのかもな。

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