間違いない文言というのはどこまで成立するか

世の中には皮肉や嫌味として逆さ言葉が使われたりするが、それはもともと嫌味や皮肉であったのではなく京言葉のようにお客様の機嫌を取るために現実そうでなうとも耳から心地よい言葉を聞かせることで乗せる言葉であったのだろうが、言葉が機嫌を取るための上辺のものであるとどこか落胆していると褒められても皮肉に感じて腹が立つというような感性になり、その感性を理解した上で怒らせようと皮肉として褒める。

このくらいの捻れが俺の親戚関係でのレベル1くらいのやり取りなのではあるが、どいつもこいつもどういう意味で言葉を使っているかはわからないものの、言葉の表裏が分からないでも包丁を天地や表裏反対に持つやつはいない。八百屋で野菜を八百万円で買うやつもいない。

このあたりの事情が外国語である英語を学ぶほうが異国語としての構えで一段理解に苦しむために母国語の素直な意味解釈を学べたようにすんなり語学として入ってきた要因かもしれないし、理科は物理しか信じられないというのも包丁を例に取ると分かる。

そういうところを出発点として、誤解のない逆さ言葉でもない皮肉でもないシンプルな言葉で伝わる文章というのを書きたいと心掛けるのだが、そういうものは読むと当たり前過ぎてつまらなかったような感じがして、心には引っかからないのだが、そういう体験を沢山積み重ねないと言葉のもともとの意味すら分かっていないという罠にはまる。

それが絵本の読み聞かせで育った子供とテレビで育った子供の違いのひとつではないかと考えている。親と一緒でないと寝られない幼少期に寝る前に絵本を読み聞かせてもらった記憶はうっすらあるが、だいたい家族でテレビを見ている「ちびまる子」的な家族で、子供部屋で音を伴わずひとりで読んだ本と爺さんと一緒に寝るようになって枕元に少年ジャンプを何冊か積んで読みながら、ラジオを聞かせてもらってそれで言葉を覚えたような。あと婆さんと風呂に入ると湯船でいっつも数を100まで数えさせられていた。

今ではそういう記憶と環境的に身に付いた言葉をあとから勉強で裏付けた言葉で俯瞰的に捉え直して自分であらためることは出来るのだが、実にもう42歳。来月には43歳である。そうなると、まだ独身ではあるが結婚して子育てなどに悩んでも、子供がどう育つかなんてのは管理や操作の及ぶところではなく半分は混沌としているものなのだろうなと想像する。

何もかも意のままという訳にはいかないが、ある種の拝金主義などもスカラで一元管理する数としてのお金が理解しやすく、それを基準にしないと数的思考が出来ない生活環境から来るものではないだろうか。お金は分かる、物理は分かる。しかし生きていくためには分からないものとも付き合うことになる。反対に自然に囲まれた田舎暮らしがしたいという人は都市的な人間関係に上手くいかない悩みを抱えた人なのかも知れない。

それも都会的な文章が無く、ただ「都会の雑踏」というような捉え方しか出来ないから人格を持った多くの人が行き交っていても雑踏は雑踏としか捉えていないというような出発点からの不可抗力なのだろう。又吉直樹先生の火花でも読めば、通りの中に落ち着ける1件の喫茶店が見つかる。そこでなら本の好きな人と出会えるかも知れない。

だけど、本屋に入ってみたらどうだろう。本屋にもきっと本の好きな人はたくさんいる。楽器屋には音楽を志す人が集っているかも知れないし、もしかしたら音楽を極めた人もいるかもしれない。俺はそういう特に気心がしれているとは言い難いが、他人でありながらも何らかの接点を持った人の集合としての都会の雑踏が結構好きだったりする。

読んだことがないだけで何処かにはあるのかも知れないが、ちょっとずつ街も描いてみたい。

本の古さから来る感性の古さのようなものが俺の人格で長短相まって仕事なのだ。

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