言葉が通じるなら、それでいい

格闘ゲームの世界では「強いやつが偉い」だ。

だが「俺、阿部さんや菅さんよりストII強いけど」と言っても始まらない。

ここで終われば、まあただの冗談。

 

けど、どうして「強いやつが偉い」のか。

若い頃の反抗期は親がいてこそ成立するけど、家庭の事情とかでゲーセンにしか行き場がなくて、そこで椅子を取るためには勝つしか無かった。あるいは大金があればパチスロのように負け続けたとしても一定時間座れるけど、そんな金のある人がストIIなんかに見向きもしないものだから、遊びに来ている人のお小遣いが尽きるまで負かせば参らせることが出来たから。

しかしビジネスとしてのスポーツ化が進むと、他のスポーツが趣味でするか、それでプロを目指すとなった時に閉じた世界のゲーセンでの「勝てば偉い」にはやや疑問が残る。スポンサー制で食べていくならお金を出してくれるところには頭が上がらず、偉くなりたいという若さから来る感情をぶつけるだけでは足りず、隷属的にゲームに取り組まなければいけなくなるだろう。

俺はスポーツビジネス的になった時点でシラケているが、挑戦と隷属は違うと思う。ゲームに真剣になるのが何処か馬鹿げているから「強いやつが偉い」と言っても外野は放っておけば良いから、つまりそこでの序列に誰も興味がないから居心地が良かったのだろう。

 

興味がなくなった原因のもうひとつは、ゲームの実装部がROMからRAMに変わったという点もひとつではある。ROMというのは縮小回路であって、読み取り専用で書き換え不可能だ。コンピュータの歴史の話になるが、いちど回路として焼き付けられたゲームのプログラムは何人たりとも変更が効かないという点において、それで競うというのが興味深かった。

だが、それは大掛かりに全国のゲームセンターの台を総入れ替えという形で交換がなされ、やがて技術や部品の変化でネットを通してプログラムのアップデートが為されるようになる。これは大仕掛けを作っている側の組織からすると単に手続きの変化でしか無いが、絶対に変えられないと信じていたものからすると信じたものが社会的な不可抗力で無いも同然にされるという環境変化だった。俺はこれに適応できなかったと言って良い。

 

それでも俺に残ったことがある。ゲームで決めると言いながら、ゲームの内部ロジックがどうなっているか読書で学んだり、他のプレイヤーと戦略戦術面で情報交換するために言葉を使ってきたので「口で言えないからゲームで決めてやる」と意気込んでいたものが、ゲームを使うより口頭や筆談のほうが決着として良くなってしまったのだ。

但し、その言葉は格闘ゲームにまつわる固有名詞やゲーマーによって命名されてきた、もしくは他の人に伝えるために論理を短縮化して命名してきたと言ったほうが正しい、専門用語で埋め尽くされた文字列だった。自然言語ではないため、ネットで活字がある前提での略語であって、聴覚だけでは理解不能である。もちろん、ゲームの体験を通じないと活字だけでも理解不能である。

この専門用語の発達と、それに伴う自然言語との乖離の過程を考えると、生活や体験から発生する自然言語と、学問によって生ずる文語の疎通性に問題があるということを体験を通じて学び、ゲームがあるから通じる言葉というのが共通体験を通して初めて成される。そしてそうならば、読書体験というのも児童文学のように自然言語のつなぎ合わせで想像を喚起するようなものであり、もう少し踏み込むとゲームの体験でも自然言語のレベルまで落とし込めばゲームをしないで話だけする人にも通じるようになるのではないかと考えた。

 

そして、それを通じて分かったことは、ゲームをする人もしない人もほとんどの人は既にデジタルの映像と音声に騙されていて、ゲームに没頭する人が現実と映像の区別がついていないと思われるだろうけど、実は観戦者のほうがプレイヤとキャラの区別やキャラの偶像性とデジタルの映像の区別が付いていないのだ。もちろん、参加者でも区別の付く付かないは分かれるだろう。

 

さて、冒頭で「俺、安倍さんよりストII強いけど」で終われば冗談だと書いたけど「俺、カプコンよりストII詳しいけど」まで来ると、もう1周回って冗談になると思う。

この冗談、既に俺の人生を全てではないとしても笑い事に変えてしまうような悪い冗談だな。