おせちをいただいて酒を飲んだ

新年おめでとうございます。

ツイッターで言ったがブログの方では未だ言っていなかったので。

稚拙とか高尚とか、そういう尺度で言葉をはかると反感を買ってしまう表現になりそうだが、理解の粒度という問題はあって、格闘ゲームやカードゲームという子供の幼稚な遊びに見えるものでも、簡単に遊べるテレビゲームは高度なプログラム技術や最新のハードウェアに支えられており、体感的に遊べる代わりに内部ロジックまで全て理解するのは結構に難儀である。

ちょっと横道を逸れると、遊ぶのは簡単である。それは複雑なコンピュータロジックを簡単なI/Oであるコントローラと画面やスピーカと間接的に関連付け、それが直接的であるかのように錯覚する仕組みであるからだ。リモコンを押すとチャンネルが変わるのとテレビゲームでボタンを押すとキャラクタが跳ねる。具体性を持つと仕組みは全く違うが、近いものはある。

カードゲームも幼稚である。カードの中に書かれている数字やルールが相関関係を持ちルールがあるが、トランプの大富豪よりは少し難しく麻雀のルールよりはもしかすると簡単かもしれない。点計算のような符飜のような表を暗記するよりパワーやタフネスを差し引きするほうが数的な計算量が少ないからだ。だが、その中で上達を目指して確率計算をしだすとちょっと計算が難しくなる。姪っ子が幼稚園の時にトランプのスピードをして、手早くカードを切る幼稚園児にゆっくりカードを切って買ったら、不機嫌になってかるた取りに遊びを変えた。

そういう意味で、知性はスカラ的に年や勉強に応じて増え続けて大きいほうが強いというものではないのだが、学校教育が点数で大きい方から優劣をつけるという算数の仕組みで出来ているので、それに対して国語の5点と理科の5点と社会科の5点と算数の5点が本当に等価なのかというようなことはカードゲームをすることで取りやすく高い点と取りづらく安い点に仕分けされ、点取りゲームに強いものが近い実力の点取りゲームに弱いものを負かすことはある。

ただし、この言説にはやや矛盾点がある。まず数学が出来るから、テストが算数で出来ていることを理解できて、天の取り易さの評価をしているのは受験者である。ただし、得意科目で高得点から満点までの伸びしろを取るのと苦手科目で更地から平均点まで伸ばすのとどちらが有利かというのは勉強中にはやってみないと分からないことなのである。

対して、得点を定義しているのも各教科の先生であり、専門外の教科の得点が自分の教科と比較してどのように得点が等価であるかということもまた計り難いのである。

それで、特に科学的というと少なくとも理科の中学生くらいまでの知識は無いと疎通性がない。また、文系でも文学作品のタイトルと内容のリンクを備える読書量や、歴史を学ぶ時に戦争した両国の地理的な関係性など外郭的な知識がないと疎通性が確保できない。これは学校教育と勉強度の話であるが、オタクの話がわからないのもマンガのキャラ名やシーンで語るものが共通のマンガ読書体験がないものから理解不能であるからであるというのは俺の持論だったが、それが波及して鬼滅ブームになった時に鬼滅を読まないでテレビを見ていると全集中と水の呼吸と針金みたいなのを森林に張り巡らして妹を縛る悪者くらいしか意味がわからない。

そして多分、俺が書いているこのブログもある程度のまとまった漢字や文法の国語知識がないと読み取れないのである。これはもう、こちらの考えを押し付けるのではなく相手の理解していることを汲み取る方向性の勉強もしないとコミュニケーションが成立しない。

俺は困っている部分もあるが、きっと得意分野以外の勉強を積むことで、通じる日が来るということだけは信じている。まだ、読みたいけど読めていない本や簡単に言うと勉強が足りなくてもどかしい思いをしていることが山ほどある。それは普段は「することがなくて退屈」と思っているのだが、退屈なのは疎通性のある話し相手がなかなか見つからないからで、趣味分野以外の人と会話するための共通言語が不足しているからなのは前述した通り分かっている。

書き続けるつもりだから、つまらないと思ってもまた思い出して時々ブログを覗いて欲しい。将来的にはもっと読みやすくなっている予定だから。


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