創価学会もオウム真理教も新興宗教のやり方ってやつは

オウム事件から既に20年以上経ってしまって、風化するとまた釣られる人がいる。

俺はオウム事件は力を持ちすぎた創価学会をメディアが牽制出来なくなったために、新興宗教というレッテルで若い人が創価にだまされないように張られたプロパガンダだと今では思う。

しかしオウムの人でも創価の人でもその村の中では生活できているわけだから、何が問題なのかと言われるとこと国内で法律に触れるようなことをされると安全な暮らしを国民に約束する政府としては都合が悪いわけだし、国民でその組織から敵視されている人も危ない。

だけど、タロットカードのストレングスがライオンを操る女性を描いているように、一見危なく見える猛獣でも扱いを知ればその力を適切に操ることが出来るという自然の摂理がある。

創価学会の人にしつこい勧誘を受けたことはないだろうか。それは折伏(しゃくぶく)と組織の中で呼ばれていて、創価の信仰を受けて唱えた願いの叶った人は次は外に出て別の人を勧誘しなくてはなならないと教えられる。そして、その方法として相手の宗教のおかしなところを論破して、間違いを認めさせて創価学会の信ずる日蓮宗のほうが正しいと認めさせるのだ。

創価の幹部は折伏はしない。下っ端に折伏をしてこいと命令するのだ。そして折伏をされた方はどうだろうか。自分の信ずるものを壊そうとされて不快になり、その人を嫌ってしまうかも知れない。そうすると友達を失い、創価学会の中の人としか付き合いが無くなってしまう。

だが、童話「北風と太陽」を読んだことがあるだろうか。仏教には「折伏摂受の二門あり」という言葉があり、時には相手の間違いを指摘して正し、時には相手を慈悲で受け入れて休ませる。このふたつを持って仏道に人を誘うのである。

正しく知れば折伏は仏門への両輪の片方でしか無い。しかし俺も学んだことがある。子供の頃に童話で北風と太陽を学んだので、何でも太陽なのである。それは俺の家がある程度に近所と比べて金持ちなので、桃太郎がきび団子で仲間を作るように物やお金を与えて味方につける戦い方で軍団はどんどん増えた。だが、その財源って何なの?となった時に全てを与えた王子様は最後は飼い犬のみを味方に無一文で放蕩してしまう。

そうじゃない。

もういちど書くと「折伏摂受の二門あり」なのだ。相手がおかしい時はおかしいと言う。まあ、なかなかに難しいことである。合っているとかおかしいとかの基準そのものが宗教であるからだ。

だから俺は最近聖書とかも読む。律法を学ぶものには智慧が付くのである。ただまあ、律法は現在の日本では六法だし、国際法もある。それに対して「普遍の真理は科学である」という理系の人もいる。それに仏道でもって接することにも摩擦はあるだろう。

まあ、少しづつ擦り合わせて付き合える折衝点を探っていくしか無いだろう。それだけさ。

俺の住む街には神社もあればお寺もあり、カトリックの教会もあれば南には創価学会の会館もある。商業地であり住宅地であり近鉄国鉄が両方通ってバス停もあるのだ。学校も多い。東京ほどのカオスではないが、この街に集う様々の人は異なった信念を持っているかも知れないが、皆で黙って電車やバスで往来して店でモノを買って帰る。その生活自体に何も問題はない。


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