サラリーマンてのは大正時代の産物なんだってね

大正時代は近代でこの令和の世は現代と呼ぶらしいのだが。

就職してみると、旧態依然とした学歴社会は現代でも変わっていないという感想を持ったことがあるんだ。しかしそれは経営者が古いからで、現代では民主主義の選挙制で政治家が選ばれる。もちろん、学歴が高いというのも選挙でひとつの武器になることもあるだろうが、田中角栄が総理大臣になった時代を庶民は経験していて、そんな社会でも大資本家である大企業というのが存続しているのは民主主義は政治で実体経済は資本主義であるというすれ違いから起こっている社会現象だろう。

自由平等が謳われる現代でも大正時代かそれ以前から続く資本家のもとで年功序列の会社に勤めるということは職業選択の自由で持って自ら望んで滅私奉公の会社員の道を選んでいるからということになる。だが、会社に勤めてお給料をもらう以外にどんなお金の稼ぎ方があるかというようなことを学校では教えてくれない。こと俺の家の場合では爺さんの代から商売をしていた。俺にとって就職は親の跡を継ぐという世襲からの解放を意味していた。

しかし入ってみた会社というところがどうにも不自由であった。高校時代によくつるんでいたものには医学部を目指して浪人して、俺が会社に入ったことを聞いてから医学部から工学部に進路を変えて大学で学び、会社に入ったという話を聞いたが最近では音沙汰はない。他には薬学部を出て薬剤師になったもの、老人ばかりの病院で思ったような人の命をドラマティックに救うでなく終末医療のような毎日に嫌気が差している話は聞いたが、アメリカ製のゲーム機XBOXをいちはやく買って遊んだというところは高校時代と何ら変わらない。

それより、俺が気にしているのはどちらかというと高校では俺より成績の悪かったものが私学を出て飲食店で働いているという話だ。俺はサラリーマンになったことをその時は誇っていて、給料をもらって外食をする。彼はよくその立場の違いから給料が違うということが公平に反すると噛み付いてきた。そして俺の地元では彼は行ける大学に何とか入ったが大学名は伏せていたので、彼はよく勉強して大学に通り、俺は不勉強で専門学校しか行けなかったという風評になっていた。それは彼が大学時代に俺の住む街の書店でバイトをしていたときに俺が専門学校に通いながらゲーセンで遊んでいたためだとは思うが、この噂は虫が好かない。

しかしまあ、職業に貴賎なしで飲食店でもサラリーマンでもいまどき給料制で、彼としては自分のほうが大学を出ているのに専門卒より給料が低いことが納得の行かないポイントらしいのだが、彼の言うように公平を望むなら彼も情報科学を学んで作品を提出して会社説明会を回り、同じ職に就けば良いようにも思う。もちろん、飲食業とIT企業でも給料を等しくしろと言う方向から公平を述べることも出来るだろう。

俺はそれならば彼こそ日本共産党に投票したほうが良いのではないかと思うのだが、彼は政治には興味が無いらしい。だが、公平という言葉に政治的以外のどんな意味があるだろう。

多くの日本企業は親族を中心とした血縁者で固められた組織である。子供の頃に大企業のトップが世襲ではなく経歴で決まったというニュースを見たことがあって印象に残っていたが、それは特異な事だからニュースとして取り沙汰されたのである。普通は世襲なのだ。

その点において就職活動をして企業内定を勝ち取っても親族で固められた経営陣に対して滅私奉公を強いられるだけである。その点、こぶりな飲食店でも調理を学び自分の店を持つという将来像が持てるなら、会社勤めと比べてメリットに思えることだって沢山見当たる。

俺は臆病なので何に付け人の嫉妬心というのが怖い。しかし、どこかでその嫉妬に対する恐怖に打ち勝たないと華々しい成功を他者からも認められる形には出来ないだろう。お金を持っているように見えるのはお金を使うときであるから、使わないで貯めているだけではお金を持っているようには見えないし、持っている意味も感じにくい。

テレビで政治家の汚職で大金が流れた話などを見ると、その内のちょっとでも分けてもらえたらと思うものであるが、そういう市民感覚では捉えがたい大金というのは結局の所は公務員や遠隔団体が細かく砕いて公務員や作業員の給料になっているものである。

お金の使いみちというのは本当に難しい。詐欺を働いたものがパチンコなどの遊興費に何千万と使ったといっても、やっていることはパチンコだから液晶画面を見て玉をジャラジャラしているだけで、そいつが捕まっても儲けたパチンコ屋は捕まらないし、パチンコ屋だって台を買って人が打っているのを突っ立って眺めて止める時に玉を預かって計数機に流すくらいの仕事なのだ。

車や船を買うというのは代表的な使い方になる。車は良いものだ。値段に見合った価値はあるだろう。まあ俺はほとんどすべての市民が車を持って車が連なった道を前の車に付いていくだけのドライブは無価値に思うタイプなのだが。最大多数の最大幸福のひとつの落とし所なのだろう。俺は皆が車を持つようになった世の中で、バスに乗ることもある。150円だ。

特に衣服とかレコードなどのファッション性で他者と区別されるために消費をする人というのは人と違うものを持つことで自我同一性を保っているので、同じものを着ている人とか誰もが耳にした流行りの音楽を揃って聴くことに嫌悪感を持っている。以前の俺はそうだった。

飲食店に勤めた彼も同じ高校の時は俺の持ち物を欲しがった。俺と同じものを持つのが彼の思う公平だったのだろう。俺はそれを仕方ないと受け入れていたし、はじめてパソコンを買った時彼もパソコンが欲しいと言ってそれを調達するのに日本橋の店まで同行し、品定めに付き合い、家まで運んでセットアップを受け持った。

今でも彼が俺の何に不満だったのか考える。特に高学歴で所得の高いものほど自分たちは受験という機会の平等を通して自らの力で自分の地位を確立したという考え方が強い。だが、そうならなかったものは機会を脱しているので、結果の平等としてどんな過程を経たものでも同じ所得に治まるようにするべきだと訴える。

彼からもいつからか音沙汰は無くなった。俺は受験という機会を逃したが、それでも学びに意味は感じるものである。彼は私学で何を学んだろうなと想像するのである。


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