内観的な最大多数の最大幸福

俺は子供の頃から親におもちゃをいっぱい買ってもらって貧乏から妬まれた。

それが嫌だったので、解決法として俺の求める最大多数の最大幸福とはつまるところ「お前も玩具をいっぱい買えるようになって幸せになれ」ということである。

借りて済ませようとか、いらないものをもらおうとか、とかく相手から取ろうとするのは俺の幸福度が減るので、欲しいなら自分で買ったり作ったりすべきであると思っている。

これは実は俺が自分の物質的に満たされた幸福よりも、相手も自分で買ってみて喜んだというようなところのほうが幸福感としてさらなる拡充であるというような意味も持つ。

最大多数の最大幸福というのは思想上にしか存在しなく、科学的に考えたら最大多数を同時に観測することは難しい。また幸福度を数量化するのも難しい。

極端な話をすれば旧約聖書には神や預言者に騙され、自分の子孫が幸福になると安心して死ぬものは死すらも幸福なのである。

また、最大幸福度が高いというブータンの生活も俺から見たらどう見ても貧乏だ。

玩具を買ったほうが幸せになるという思想はおもちゃメーカーとしたら繁忙を意味するが、喜んで作っているのでない限りそれが労苦になることもあるだろう。

案外と、最大多数の最大幸福を本気で考えるなら、自分の幸福を物質的な満足で満たすことよりも内観的な幸福のあり方に焦点を当てるほうが正しいのかもしれない。

ハッキリ言うと、俺は幸福を感じることはあるが、人がどんな時に幸福を感じているかと言うと、人間の感情は複雑にもつれていてテレビのワンシーンで爆笑することもあればドラマにかかっている音楽の歌詞のワンフレーズに泣くこtもあれば、泣けるドラマの猿芝居に滑稽さを感じて嘲笑するような卑屈さもとても醜い形ではあるが幸福に思えることもある。

このコロナ禍の世の中、ひきこもりが増えて巣ごもり需要が発達すると、子供の頃の勉強部屋でゲームボーイが幸福だったように、テレビゲームで遊ぶという小さな幸せが実は発達した科学がもたらしたとても大きな幸せで、家にどれだけ自分が幸せになれる「モノ」があるかみたいに最大多数の最大幸福が非常に計りやすい社会になっていると思う。

けど、家にいるよりは外で飲みたい人もいるだろうし、外で飲むのは飲食店を働かせることになるが調理の好きな人もいるかも知れないし、営業自粛をしてカネだけもらえても幸福を感じにくい人だっているだろう。

つまり、相手が何に幸福を感じるかわからないとカネやモノや価値観の押しつけになってしまう。

先にも書いたが、最大多数を観測することなど人工衛星で頭数を計ることくらいしか出来ないだろう。科学がもっと発達したら出来るのかも知れんが、その装置のインジケータを俺が眺める日が来るとも思い難い。

つまり俺は俺が幸福で、関わる人が俺に不平を言わず、今の暮らしが続くだけでもう充分だと思っている部分があるから、俺にとって嫌な感じのする人をブロックして、俺が少しの助言をするだけでその人がもう少し幸福になるだろうと思うと占い師のように振る舞うのだ。

そう考えると俺の言う最大多数の最大幸福は俺の最大幸福を邪魔されないための虚構だということになる。


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