鉄腕DASHを見ていたらテレビカメラに虹がキレイに収まっていて

その昔に持っていたMDコンポで目覚まし時計の代わりに朝タイマーしていたミスチルの植物の茎が音符の形になっている"it's the beautiful world"だったかな、そんなアルバム思い出した。

二車線の歩道を跨ぐように架かる虹を

自分のものにしようとしてカメラ向けた

光ってて大きくて透けてる三色の虹に

ピントが上手く合わずにやがて虹は消えた

胸を揺さぶる憧れや理想は

やっと手にしたその瞬間に姿を消すんだ

この歌詞の絶妙なところは昔のカメラで虹が上手く撮れないところと憧れたものが現実となった時に何か思っていたのと違うところが掛かっていることなんだけど、最近カメラが良くなったことでこの歌詞世界の示す意味もまた失われるのかなと思ったんだ。

ただ、カメラとネット配信の普及によって「テレビに出るとはどういうことか」みたいな漠然とした憧れに対してお金があれば自撮りで配信できる社会の憧れに対するピントの合い方もまた精密になってきていて、例えとして伝わらなくなる以上に「やっと手にした瞬間にその姿を消す」という現象自体もどこか掴みどころが無いものに変容するんだろうな。

それでもこの歌を思い出すのは歌の続きが「捨ててきた夢の続きを」何度でも諦めないという精神性がついにカメラに虹が収まったことで昇華されたものとなったからだ。昔の歌が未来予想というか決意を伴っていて、15年くらいかな、もっとかな。そうして実現したんだな。

そのミスチルが今は"the song of prize"の中で「僕だって小さな歯車」と歌っているところと、読売テレビアナウンサーの辛坊治郎さんが自身の番組の中で「いつ中国から狙われてもおかしくない」という冗談がそれで済んでいることに何かこう大物アーテストとて小物に収めてしまう社会の圧力は抗えないものであるという諦観を示しているよな。

もっと前には桜井は「知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるなら誰だってそう僕だってそうなんだ」と叫んでいたしその後には「閉ざされたドアの向こうに新しい何かが待っていてきっときっとって僕を動かすんだ」と歌っていたよな。何のMVかは忘れたけどアメリカのグランドキャニオンみたいなとこで撮影された壮大な世界観を表現したこともある。それが最初に歯車を歌ったのは「くるみ」だったような。

まあ俺としてもライブハウスとかに通う前にラジカセで室内で音楽を楽しんでからウォークマンに夢中になってライブに実際に行くとみんなライト振ったり拳上げたりするのに付き合うの正直しんどい歳になった。一緒に歌うと近所の観客にうるさいってぼやく人もいたりで、テレビでライブ見るほうが停止してメシ食ったり用を足したり出来るので都合が良いわけだが。

そのへんも「友人との約束をキャンセルして部屋でナイターを見よう」と見事に歌詞世界に収まっているわけだ。このへんの歌詞世界の表現な。高校の時に文化祭の準備でラジカセ掛けてると「物憂げな6月の雨に打たれてとかミスチルって歌詞いいよな」とか語りあったものだ。

しかし年寄りには腐す人も多い。特に阿久悠先生なんかは「最近の歌は若者が俺の気持ちを分かれよって歌っている。もっと聴いた人が幸せな気持ちになるような歌を書いて欲しい」と仰っていて、なるほどな部分もありつつ、俺はそういう歌によって出来ている部分はある。

まあそんな若者の思索すべて含めて「ガキじゃあるまいし自分に言い聞かすけどまた答え探してしまう」から「今僕のいる場所が探してたものと違っても間違いじゃないきっと答えはひとつじゃない」に歪んでいくのもな。

そう考えていくとそのへんに答えていっているのはミスチル自身ではなく後発の若者バンドだと思うのよね。露骨に影響を受けて、継いでいる部分と受け答えになっている部分はあると思う。そういう意味ではミリオンセラーの独り占めではなく色々のバンドがあって互いに語り合っている方が健全だよな。そうして少しずつ小さく丸まったのだろう。

長文になった気もするが俺の30年分だと考えたら短いので一気に読んでもらえたら嬉しい。


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