格闘ゲームで強いやつは「相手を喰う」という話

抱えている用事が無くなったのでふと昨日PS2を立ち上げてカプエス2を遊んだ。

チームはブロッキングのPグルーヴで草薙京リュウロレント2だ。

そうして久々に遊ぶとふと自分の動きに何の根拠も無いような感覚に襲われた。

コンピュータ戦なので、今まで何度も遊んで相手のパターンの穴をを突くことは出来る。だが、対戦を主眼としてベストムーヴというのが何処かに無いか考えながら動かしていくと、ゲーム中に段々と気持ち悪くなりいちど負けた。気を取り直してもう一度すると、これはもう最初から負けまいとしてコンピュータを操ってしまうので同じ感覚は得られない。

まず、ストIIが流行ったのはそれまでひとりで遊ぶのが当たり前のビデオゲームが通信でゲーセンの客同士で遊べるようになったからだ。しかし、その流行規模は50万台出荷くらいで、スーファミ版のストII及ぼストIIターボからスーパーで累計600万本。つまり少し強引な計算をするとストIIとひとくちに言ってもゲーセンで対戦を楽しんだファンは1割程度ということになる。

そして流行期が過ぎてから俺はゲーセン店員となり、どうすれば客が釣れるか、コインを入れたお客さんを100円玉1枚で「お接待」することをよく考えていた。

それで出来た第二流行期に群がったお客さんを相手に連勝記録とか大会連覇の記録を作ったのが今のプロゲーマーに繋がっている。まあ「今の」というには少し古い話題だが。

普通に勝とうとして遊んでも、相手の動きを覚えてそれに合わせるしか無いのが格闘ゲームの特徴ではないだろうか。実験的作品であるストIIの頃からデモ画面などでコンピュータ同士の対戦は存在していて、開発中にも無数に行われたと思う。そしてゲーセンでお金を入れてはじめてのお客さんでも遊べるアルゴリズムの工学的な「遊び」はお接待を企てる以前から用意されていた。

そういう意味で、3キャラほど勝たせてから殺して10分20分で100円取るのはゲーセンのもともとの商売である。ここが対戦流行期では2〜3分で100円玉が回転して1日1台2万円の売上を叩き出すこともあり、台が約16万円だったので、これが2ヶ月稼働するとそれはもうメチャメチャ儲かるわけで、バイトも警備員の仕事をしているお爺ちゃんから若いスタッフの増員につながったわけだ。

これはもう、ぶっちゃけるとゲーセンが社交場で集うゲーマーは独特の嗜好性を持っていて、人の顔色を見たり話をしたり出来る気の利いたスタッフの居るゲーセンに人が集まるイベント中心の時代を通り過ぎているわけだから、そこにチャットの付いたネットゲーが流行って、それでもまだ格闘ゲームとなると、イベントとかに積極的に集った旧来のアーケードファンではなく9割の家庭用格闘ゲームファンがどのように遊んだのか、まだ持っているか、懐かしいと思って消費することは復刻版とかで分かっているけど、それを「どう遊ぶのか」というところにフォーカスしないと「ひとりひとり接客する」というゲーセン的なアプローチを期待して「ゲーセンに来い」ではネットの記事としては「読んでも100円損させられる」ということになりかねない。

既にネット格闘ゲーマーは「動画ファン」が結構な数の勢力である。やりたいのではなく見たいのだ。

その意味で、やりたいことが明確に作戦として文章化されていることは視聴に対する納得感を与えるために活字メディアに求められる仕事だろう。狙いが分かるから見どころがあるわけだし、勝っている方が相手の狙いを食って上手であるという世界観が生まれるのだ。

そこまで含めて、もういちど格闘ゲームのゲーム性から捉え直して、読んで分かる作戦を立て、そしてそれを遂行して、その後にそれが他者から破られるところまで来ないと俺としては何も面白くない。

なんとなく動かして、技を当てて勝つだけでも一定の快感があるとしてしまうと、それはアニメ絵と体力ゲージやヒット効果などのプレイアブルアニメーションとしてのゲーム制作者の手柄そのものだろう。

「ゲーム」として駆け引きとか作戦がどう存在しているか。考えれば考える程いままでわかった気でいたことはそれら全て相手コンピュータのアルゴリズムと、それを打ち破ることで出来た人間の「クセ」のようなものであり、ゲーム理論としては何の根拠も持っていない掴みどころのないものであると考えられるようになってきた。

この議論はゲームの作りて側からは「2人で遊ぶためにそれを媒介するツールであれば良い」と片付けられてきたことだが、それはアーケードとしての考え方で、アーケードで仕事の終わったゲームを家庭用に移植して売るのはゲームを遊ぶことよりも消費に期待した販売である。

しかし数字で見ると、そっちのほうがメーカーとして儲かっているはずなんだ。これはまつりの屋台で「当てもん」をするのと家族で「人生ゲーム」とかを買って遊ぶのとどちらが面白いかみたいな比較に近く、いま俺はつまり遊び相手がいない格闘ゲームをいかにひとりで遊ぶかということに集中しているので面白くないのではないかという結論に達しそうだ。

それは俺の金が俺の意思でゲーセンに100円ずつ取られるのを傍目に見て面白くない界隈から「あんなことに100円払うならこっちにも少し分けて」という感じか、それとはちょっと違って「100円よこせとは言わないけどゲーセンなんかに簡単に100円やるな」という外圧から「ひとりで遊べ」という風に部屋に押し込まれて困った末に出てきた答えなんだ。

「ゲーセンに100円やるな」という代わりに一緒に遊んでくれるわけではない。ゲーセンで遊ぶと遊んでもらえる代わりに100円は必要になる。ある意味で甘言の誘惑に負けるか苦言を受け入れるかという選択なのであるが、いまいちどゲームの何に快感を覚えて繰り返して100円入れたくなるのかと言うことをどうにか突き止めないと、ただ今まで趣味としていたことを我慢するだけでお金はたまったとしてもフラストレーションが爆発寸前でずっと燻っている。


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