「人生の意味」というのは言葉のトリック

「意味」というのは表現に対する解釈の疎通性なんだよな、多分。

だいたい、話せるようになってくると言葉の意味はわかる。

けど絵画とか音楽とか、映画とか小説とかは有意性はあってもどこか受け手の想像を刺激するもので発信者に絶対的は具体性があって正しく伝わっている保証みたいなものって無いと思う。

そうして「人生」という言葉に対して「の」「意味」という言葉をつなぐと人はその人の一生を通して他者や世界に対して何らかの意味発信をしており、観察者に対して有意性のある何かを意図した生き方をしているか。というとても壮大な意図伝達の骨組みが見えてくる。

そんなことはないと俺は思うんだ。まあ衣食住とか生存生殖それそのものが容易になった社会のなかで個人が他者から見た有意性とかもっというと利用価値みたいなものがないとその人が存在することすら認められないみたいな危険な発想にもなりかねないよな。

俺はもともと本とかマンガとファミコンが好きで中学受験は国算理、中学時代を受験で取り上げられたファミコンを親から返してもらって存分に遊び、成績は落ちて高校で分かるのが語学と物理と数学と倫理だけになってバイトしてから専門学校でコンピュータ科学を学び国家試験に通ってゲーム会社に勤めてみてから公務員。かなり偏ったモノの考え方をしてきたと思う。

けど、精神病で入院して退院してから勉強のバランスの悪さを見直して、中学くらいの理科と社会科をやってみると、生物とか地理とかの煩雑さも中学ではある程度は単純化された意味を持っていて、そこから勉強し直すと、高校の勉強の持っている専門性やそこを履修した上で大学に進んでどう掘り下げるかって指針も見えてきたんだよな。

言葉の意味が深く分かると、なんとなく言葉を繋いでしまうことによって相当にとりとめもないものの考え方をしてしまう。もちろん、そういう言葉も受け手の想像を刺激する意味から詩的な意味はあるんだろうけど、間違いのない考え方というのは俺は理系に軍配が上がると考えるタイプだ。だがまあ、人文でも理科がさっぱり分からないわけではなく教養として知っている上で、それでもまだ取り留めもないことを論じ合っていたら、それは言葉遊びに終止する自由人としての文系イメージを形作るひとつの学問様式であろう。

まあ、そうだから人生の意味をもっと考えたいやつは考えていれば良いと思う。ただ、俺はそれは言葉遊びであって哲学とはちょっと違うと思う。昔いちど読んでサッパリだったフロイトとかをもういちど読み直すと、若者の心理みたいなものは形成期から順を追うと見えてくることもある。ただ、それは振り返られる自己と自分に似た後進の若者の類似共通性において見えてくるものであって、若くて勉強できるやつがいくら猛スピードで勉強しても同じ見え方にはならないんじゃないかとも思うんだ。

そりゃね、論理の筋道がよほどしっかりしているなら、論理なんだから順番間違えずに高速で追えば同じことだろうって思うかも知れない。けど、本にしたって行間ってものがある。きっと分かろうと努める内に、同じ気持ちになることもあると思うんだ。

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