長い間ずっとぬるま湯につかり過ぎたようだ

昨晩は映画Fukushima50のテレビ放送を見て寝た。

自分の比べちゃいけない、ただ頑張っている人を見て共感して涙を流す。

福島原発の問題はまだ進行形だが何か具体的に参画できるわけでもない。その役割の人がいることを思い、祈る。出しゃばる必要も無いし、むしろそうしてはいけないのだろう。

 

それとは別にマジックザギャザリングのデッキをいじっていた。

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暇なので遊んで考える対象があったほうが良い。その意味でマジックザギャザリングは充分に退屈を満たすに値するゲームだ。いやひょっとするとゲームが面白いのではなくカードの絵柄が色々あるからそれを眺めている時間が楽しいという要素のほうが大きいのかも知れないが。

エネルギーというのは不思議なもので、そのために働いている人がクローズアップされることも時にはあるのだが、基本的には多くの人が働かないで済むためのものである。労働階級が労苦からの解放を願ってエネルギーを使うのは合理的だし、エネルギーがあると旧支配階級も労働者の数が減っても同じような暮らしが保証される。

ただ、エネルギーの普及が進んでも日本国憲法には依然として勤労の義務が記されている。だから多くの人は労働の体を取った付加的生産活動に従事している。もしかしたら、みんなが働かなくなったら他国と比較して国産品の品質や価格に競争力が無くなってゆるやかな衰退の道を辿るのかも知れない。そういう警鐘がテレビで流されるのは何故か。

トレカを並べながら、努力と結果の関係性を考えていた。努力が美徳なのは旧貴族階級が労働階級に勤労を強いたのと同じで奴隷道徳ではないか。俺は小学校の時に塾に行かされ、学校でも塾でも成績はイチバンだったが宿題を出したことがなかった。ただ、読書は結構していたしプラモデルを作って大人向けのホビー誌の古本をもらって読んでいた。

学校では特に何も言われなかったし天才の噂もあったが、塾では義務教育外の勉強を強いている以上宿題を出さないテスト満点の子供というのは大変に都合が悪く「努力無しで取った100点と努力で取った50点どちらが大事だと思う?」とクラスの先生が泣きながら説教して釣られて「努力で取った50点だと思います」と答えた。

この時に俺に社会的外圧の非論理が植え付けられたんだろうなと思う。俺の俺なりのやり方は社会からは努力とは認められない。

他には歯医者さんだ。ギターの練習を始めてから数年が経って視聴者が付いたとき、それまで何かにつけ努力の恩恵を感じられず努力は徒労でもっと良いやり方があるのではないかと考えていた俺が、初めて努力の意味を実感できた。すごい努力だとは思わないが、習慣による体の変化を感じていた。しかし虫歯になって歯医者に行くと「歯も磨かないで何が努力だ!」とちゃんと葉を見てもらえなかった。

40代になってから歯槽膿漏が怖くて歯磨きが習慣づいたが、歯の黄ばみは取れない。それでも歯医者さんが「まだ間に合うから信じて磨きなさい」という言葉を信じて、毎日磨いて、時々面倒になってまた2日に1回になったり、また毎日になったり。そして磨き終わってから手鏡で歯を見る習慣も付いた。

俺は勉強に関してもゲームに関しても子供の頃に天才性で勝っていて、努力をした他の人間に追いつかれてから頑張ってみても抜き返せないので努力にあまり意味を感じられなかったが、ギターが弾けて歯の白い芸能人を見ると「あの人きっと努力したんだろうな」と思う。でも、審美歯科のような歯医者に行っているだけかも知れない。そう考えるのが子供の頃に宿題せずに満点だった子供の素直な見方だとも思う。ギターも当て振りだろう。

ただ、結果というのは他人に見せるものであって、努力というのは自己採点の論理だろう。人に見せるのは努力よりも結果のほうが良く、自分では結果よりも努力や習慣のほうに重きを置く。「俺は歯を磨いている」と言うより白い歯を笑って見せるほうが良さそうだ。

いつから天才性だけで勝てなくなったか。そして勝てなくなってからどんな努力で挽回しようとしたか。その努力は人から認められたか。いつから努力に裏切られたか。諦めたか。

俺は子供の頃に学校の宿題以外で自主的にしていたことの有意性が学校の先生から見えなかっただけで決して努力せずに満点を取ったわけではないとあらためて思い出す必要がある。

俺は俺のやり方を取り戻して、世間で努力に分類される行動を自発的に人に見せることで塾の先生の非論理なエゴに仕返ししたいみたいな思いを捨てることが今日の新たな一歩だろう。

それが他の勝者がしている俺からは見えない何かを見抜く力になれば良いのだが。