専門家会議をテレビであんまりやるのはどうなのよ

俺はまあ、何度もブログに書いているが専門卒である。高卒以上大卒以下と見られやすい。

だから大学と言っても国公立と私学などの差はあるし医学法学と文学などの差もある。

そして俺は実務経験が長く大学の情報工学科とかの新設学部の授業内容でも理解できる。

だが、専門学校在籍時にはそれ以上下のいない総合系私学から「専門」と呼ばれ、彼等は自分が大学のランキングでは勝てないので、中卒や高卒をいじめるように「大学で」を発言の頭につけてマウントしてきた。

もちろん、大学は学問をするところで、専門学校は職能を身に付けるという機能の違いはあるだろう。俺の出たサンタックコンピュータ専門学校では単位制で短大卒の認可を受けることも出来るので、大学編入論文博士を取ってやり返すほうが筋は通るかも知れない。中卒を引け目に感じていた芸能人が夜間高校に通ってコンプレックスを克服した話などには共感できる。

話として筋が通るのであれば、普通に意見すればいいと思う。話の筋に無理があるから発言の前に「大学で習ったことに」とかを付けないといけないのだ。

その問題は実は日本で最高のブランドである東京大学でも同じで、東大卒で分筆をしている人でも東大卒を看板にしないと読み物としての人気がなく、また文章の説得にも東大であることと、東大になるために忍耐のいる受験を勝ち抜いたことを併記しなくては筋が通らない。これは実は学歴組が成功者バイアスとか根性論を否定するのと同じ理屈で、論理的に正しいのであればそれで説得できるという方法論は詐欺の三段論法などの騙しのテクニックと広い読者層には区別がつかず、話の正しさよりも受験に勝ったことを正当化しているだけの論理なのだ。

そうして政治の世界では投票に勝つ政治家と受験から上がる官僚がいるわけだけど、医学とかになると専門知識が足りないのでコロナ禍で専門家会議が併設された。

政治判断に於いて大学で研究職に就いている専門家の意見を聞く。それを聞いても即効性があってスパッと解決できないところで、議論が右往左往しているさまをテレビで視聴者に見せるのは、協力しているようで実は静かなる離反ではないかとすら思える。

つまるところ受験による入学許可を受けていないものを入門証管理ではじいた密室で職員や学生が研究や論議をしているから神託のような信仰が集められていたが、テレビカメラが入って論議の経緯が透明化されたところで、既に言うことを聞かせるだけの明快さが無い。

もちろん、説得力が無いわけではないが、効果が100%でないことが実証的科学への信仰を失う要因になっているのだ。科学の再現性とは何度も試せば同じことをもういちど起こせるかも知れないが、正しい手順を踏めばいつ何時でも同じ現象を繰り返して見せるには至っていないから。

この原因はつまるところ、論理が事象をくまなく網羅したものではなく、面に対する点や線でしかない行間を含む不完全なものであるからだ。

まあ、少し話が逸れたけど、確かに専門学校卒業から仕事をしながら東大の本を読んできた俺は、いい加減に東大の授業を高校講座よろしくテレビでやったらどうだと考えていた。

それが実際にカメラが入っていむと、テレビの教育番組は映像制作とかにとても労力を使っていて分かりやすいが、対して大学の先生をカメラで映して話しさせるだけでは拾う方にも一定の学識が必要になる。この差は話が正しいのなら、やがて映像化技術が進んで埋まるのだろうか。それとも、数式や話では表現できても、いざ具体性となると立ち消えてしまう抽象的な話でしか無いのか。

具体性があるか抽象的なのか。その線引が政治的決断の前に効果の可否を分けている。


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