MTG初代日本チャンピオンは切り札を引いてくるという話

麻雀界隈で「デジタル」というのは新しい潮流である。

将棋業界ではコンピュータが終盤に強いことは以前から知られており、人間は序盤中盤の研究をして、対局室の外では実況席のカメラの外側でコンピュータが動いて既に詰みが見えているというような裏話があった。そしてコンピュータ将棋もスペックアップと研究者の増加で序盤中盤も強くなり、プロ棋士はこぞってコンピュータを研究に使う時代となった。

話を麻雀に戻すと、麻雀というのは机上での計算だけでは答えの出ない不完全情報ゲームというやつである。初心者同士では運の要素もあり、ルール上で開示された範囲での論考のみでも強くなれるのだが、実際的には運に思える洗牌から全て把握しようとしたり、対人故に相手の所作や癖から持ち手をあぶり出そうとするアプローチを隠して、上達法などではオカルトなはなしがまだまだまかり通っている世界である。

それに対してデジタル雀士というのは、人心や配牌などは科学原理から参加者視点では掌握不能で手牌と河と確立計算だけを信じて麻雀を打つ雀士のことを指す。

話は変わるが、野球の世界で小学校6年相手にプロの選手がソフトボールで140キロを投げて三振を取りプロの厳しさを子供たちに教えたというエピソードを考えてみる。確かに剛速球を投げるためにトレーニングを積み、苦しみや痛みに耐えて鍛えた強靭な肉体と体の扱い方を研究した投球フォームなど、これから子供たちが目指す道は決して甘くはないというプロの厳しさを見せつけるというのは人気取りとして子供に負けてみせる器量を持つことと天秤にかけても効果のあるパフォーマンスだろう。

ここで、最近の趣味であるマジックザギャザリングのプロを考えてみたい。MTGのプロである藤田剛史は過去に「競技としてMTGに取り組む人のレベルが低く、他競技よりラクにお金が稼げる業界である」という話をしていた。昨今ではそうでもないようだが、俺は反対に子供でもルールを覚えてカードを揃えたら簡単にプロに匹敵するがゆえに、プロがプロとして勝ち続ける肉体的なトレーニングのような努力で付けられる差がなかなか見つからないというところがこの競技の難しさではないかと思う。

いまここで俺が考えていることは、野球選手が辛いトレーニングに耐えるのなら、大会成績などの半端な看板を背負って地方のおもちゃ屋に出向き子供に負ける様を情けないと落胆される、その程度の事に心が動揺していてはとても務まらない世界であることを認め、運否天賦に思えてもデジタル雀士が確率を信じて勝率を競い合っていることに見習うべきことも見つかってくる。

すごく古い話だけど、初代日本チャンピオンの塚本俊樹は自伝的な参戦記で「次にこのカードが来ると思ったら実際に山札から引いてきた」というようなオカルトを記していた。いまここをいちばん良く考えている。もし全てが運否天賦ではなく、とても月並みな想像だがカードデッキのカードの順番そのものを把握できるような能力があればどうか。

興味を持ってから、トランプ手品のインチキなども興味を持って勉強した。ストリートファイターの世界で梅原大吾昇竜拳が取り沙汰されたときに真っ先に飛びついて、オリンピックでもベン・ジョンソンが銃声から0.13秒以内にスタートを切るのは銃声を聞いてから反射神経でスタートする人間の限界を超えているためフライングとして扱われたという史実をもとになにかのトリックではないかとひたすら疑った。

まあ、いちばん簡単なトリックは八百長だ。それでも、そこを疑ってしまうと競技としての目的を見失ってしまうので、あくまでガチ前提で様々の可能性から振り返ると八百長だったかも知れない試合に追従して再現するかのような数々のテクニックを編み出してきた。その中には競技者の間で常識化して、梅原大吾本人も使うようになったものなども含まれる。

デッキを全て把握するというのもあくまで常人の範囲で短期記憶のチャンクなどから到底無理なことであるという出発点から初めて見ると、印を付けたり塩をカードの間に入れて滑らせるなど、様々の手品のトリックの世界が広がって純粋に「どうすれば自分にも出来るか」この1点に集中してものを考えられる。

もちろん、審判の目や相手のカットなど、簡単なイカサマを封じるための規定もある。それでも、それを全てかいくぐって何が出来るか。そこに目を向けないまま、運に任せて目を瞑るかのように見たもの触れたものではなく数学だけでデジタル麻雀のようなことをしていたのではないかと振り返る。

プロは甘いものではない。このことを改めて肝に銘じ、差がつく要素がひとつでもないかと研鑽する。それを生業とするところまでは行っていないが、暇人として格闘ゲームにそのように打ち込んだように、マジックザギャザリングももうちょっと研究してやろう。