「手塚治虫のブッダ」見始めた

映画を5本の章に区切ったものを1話終了まで。

アニメを見るのは何故かどっと疲れる。活字でもマンガでも時々閉じて休みながら読むようなところがあり、アニメも区切りがあると大抵そこで休んでそのまま続きを見ないことも多い。

感想を書くとネタバレにもなるので控えるが、描写の中に超自然的な「ありえない」を感じるとそこでどこか興醒めになる。しかしまあ、超自然的描写も筋書きを手短にする暗喩かもとか捉えだすと、多分もうそれは感想ではなく自身の創作でそういう想像の余地が残された作品。

なんというか子供の頃に体が弱くスポーツをして健康な体を手に入れた人というのは弱者と強者のふたつの立場を同じ人生の中で経験しており、対して頭が悪いが勉強して賢くなった人というのが本当に存在するかというのが教育の効果を見る上で重要だと思う。

街を歩くと大きい声で話しながら時に汚い言葉で罵り合う小学生を見るのだが、ある程度年を食うと黙って歩いているようである。だがどうだろう。大阪の商店街にはやかましいおばちゃんはいる。言葉を教えているのに黙るほうが賢いというのは如何なるものか。

話を変える。

アニメを見るのは疲れるが、見て良かったと思う作品との出会いもある。俺はバカみたいな長文をよく書いているが、それは読む人が知らないと仮定して書くからで、反対にアニオタに人気の作品をたくさん見ていることが前提の活字というのもあり、有難がって読んで必死に追視聴して話になんとか付いていきたいというような社会もある。

高等教育もまた平文で書くと異様に長くなる文脈をある程度のまとまりの言葉に要約して、そういう難しい言葉の意味説明が省略されてゆく社会を想定して行われるのだろう。

これが普通科だけでなく、ありとあらゆる社会で意味の要約と発言を短くする省略などは行われており、アニメを多数見ることで様々の異世界追体験したオタが話したい内容というのも平文では到底追いつかず、作品名やキャラや台詞だけで伝わる人とコミュニケーションを取らないと分からない人にいちいち説明するのはもっと多くのアニメを見て追体験を増やすのと比較して時間がもったいないとでも思っているのだろうか。

その意味で、俺はプログラマーなりたては2画面の作業環境によく憧れた。ソースコードをもっと広い画面で一気に読みたい。同様にパソコンで仕事をしながら横にスマホを立ててアニメを流している時期もあった。もっと脳に電極繋いだらとか、ダイレクトにアニメを何本も消化できるような装置に入れたら。そうすると既に考えているのは人間の脳より機械の方ではないか。

そんな世の中に手塚治虫を見始めたのは、勉強できる子がこぞってコンピュータに傾倒している今の世の中は既に手塚治虫が過去に描いて警鐘を鳴らした世界とそっくりであると立川志らくがテレビで言っていたのをたまたま見たからだ。そこで作品にブッダを選んだのはマンガをそこで買うと買わされた感じがするのでアニメサブスクですぐ見られたから。

テレビを見ていて言っていることが分からないことは珍しいので、気になった。手塚治虫はどう警鐘を鳴らしたか即座に説明できればそれで用事は済むのだが、テレビの人が「読みなさい」という尺しか持っていないのか説明する語彙力が無いのか、それでも俺がアニオタと付き合ってみて、話はできないがとにかくこれを見ろと言われた作品を見て良かったと思ったことは何度もあるのだ。それは小説などなら、言われて読んで後悔することは多いのだが、それが小説の追体験はその人の想像の世界でしか無く、対してアニメの追体験は誰が見ても作意が間違って伝わることが珍しいというところに所以するのではないだろうか。

まあ、ツイッターで誰かがコマをツイートに貼り付けるなどしてくれて、手塚治虫が描いたコンピュータワールドは断片的に知ってはいる。ただ、その作品がマンガ媒体からアニメに移って昨今では当のコンピュータがアニメ視聴に使われているというところまでは読み切っていないのではないだろうか。

つまるところコンピュータが人を支配するという思想は政治思想を極端にしてその道具として比喩的に巨大なコンピュータを描いたというだけで、ケータイでアニメ見てたら子供時代にマンガで読んだ手塚治虫を我が子にもという思いは半分叶っているのではないだろうか。


🄫1999-2023 id:karmen