淘汰の話

ワープロがパソコンソフトになって便利に使ってこうして活字を打つのが病的に習慣化していることを疑ってみた。テレビとYouTubeで満足行くまで半日を消化して間食とタバコも楽しんだ。ああ、俺このまま死ぬのだろうかと。

俺がネットに書き散らかした持論で「人間の生きる意味は子供を残して次の世代に意味を託すことの永久循環だ」みたいなのがあるが、これも騙しのロジックみたいなもんだと思う。

適者生存と自然淘汰の違いは「環境に適応した生物が生き残る」と生物に主語があるのが適者生存で、自然淘汰とは「自然に選択された生物が生き残る」と神のような存在として主語になりえない「自然」というものが生き残るものを決めている。ということ。

もともと俺がこのふたつの語を知ったのはカードゲームマジックザギャザリングの「Preferred Selection(淘汰)」と「Survival the Fittest(適者生存)」というカードに当てられた翻訳がキッカケだったと思う。「好ましい選択」を「淘汰」と当てているのは翻訳者の学によるものだろう。カードの絵柄とか効能もそれを思わせるものがあるからだろうが。

しかし、ふとこの微妙な言葉の解釈の相違を説明している言語体系全てが不思議に思えてくる。

日本語で「言葉」というとまさに「葉」なわけで、事が言となり植物のように幹を持ち葉を蓄えるように成長してゆく。では実はあるだろうか、などと考える。

対して英語のランゲージLanguageを取ってみると「舌の年齢」つまり「口の達者さ」みたいな語源があるようだ。雄弁たれということであろうか。

適者生存も自然淘汰も能動か受動かで区別するのだが、そうなると個々にある意思を認めるか環境による運命かみたいな哲学的な違いでしか無く、優れている方とか正しい方という尺度を受動の論者が唱えるのもおかしな話になると考える。

全部ひっくるめて、言葉の違いでしか無いと思う。現象を理解するのに図的な想像力があれば、自然環境が変化して生き残るものと死滅するものがいるという話でしか無い。

そこに意思が介在するように書くか、意思は介在しないと言うのが正しくても人が人に伝えている以上はそこに意思があるように認められるという自己矛盾を自然淘汰説は含んでいる。

今日の考え事はそこらへんまでかな。騙された気分のところがスッキリしたので。