久しぶりのカルドセプト(賭けを受け入れる)

ブックをいじるのとゲーム対戦を繰り返してあれこれ考えるサイクルにまたハマる。

f:id:karmen:20210425225349j:plain

f:id:karmen:20210425225413j:plain

f:id:karmen:20210425225423j:plain

f:id:karmen:20210425225433j:plain

f:id:karmen:20210425225444j:plain

そしてブログに持論をぶちまけるといつものパターンになるわけだが。

ブック構築の時点から運を排除しようとすると領地コストなど少なめの方が好ましいわけだが、そういう風に縮こまると楽しいものも楽しめず、リターンの大きい不確定要素もブックに含めたほうが実際に対戦ゲームをしている時に駆け引きのスリルが蘇り楽しくなる。

こういうことだと思う。ゲームの中に安定要素があるとしてそれを見つけ出し安定的に勝つようになると、それはそれで発見だから見つけた時の楽しさはあるけど、お手玉を手にじっと持って安定だから楽しいかと言うとふたつ持って落とすかも知れないけど投げて回すことが楽しいのであって、ゲームも相手の得と自分の得が交換されて絡まった結果で勝つのが楽しい。

トータル勝率9割1分というカルドセプトをまた遊ぶのは勝つのが楽しいこと自体は否定しない。ただな、ゲームを繰り返している俺の人生についてその幸福で充分かは時に疑わしい。

難読な学問の本を1冊読み込むのと漫画本を読むのではマンガのほうがページ数あたりでは楽だが、普通マンガって慣れると結構速読で冊数も大量に読んだりするものだから、紙の量を気にしないのならマンガ読書体験をたくさん積んだ人というのも何らかの読書体験があるわけで。

ただ、俺の場合は漫画の単行本をまとめて買うのを値段が高く感じてしまうところがあり、ある時は漫画喫茶とか友達の家で貪るように漫画を読んだが、近頃は週刊誌を読む程度でテレビのアニメを毎週「僕のヒーローアカデミア」に「名探偵コナン」など視聴を貯めていくとマンガと変わらないのではと思ってそうしている。

同じように「数学だけが論理的で正しいものの考え方である」みたいのも「東西に300キロ離れた地点Aと地点Bを移動する」みたいな文章と比較して「東京〜大阪の間」の7文字で社会科から距離が想像ができる人もいるだろうから、文中に明確に数字化されたモノがなくても距離感とか速度とか数的な考え方をしていない人間などいようはずもないのだ。

ただまあ、フィクションの虚構を見抜けるかそれとも陶酔してしまうか、難しい単語で要約された文章を平文に翻訳して理解しているかみたいな差はあるだろうけど。反対に寓話としてフィクションの暗喩で説かれている人間関係や寓話を実世界的な行動指針に反映できるかみたいな差も多分あって、キャラの台詞ひとつで見ず知らずの人と意気投合する契機になることもあるだろう。

つまり、あれこれ考えてそれがいちばん得と思う行動を自分ではしているつもりだが、誰にとって何が得になるかはカオスの中の偶然性が読み解け無いように分からないものだな。それでも、あからさまに人間関係で取り分けお金の問題で騙されている人を見つけたら、不当な理由で取り上げられている知り合いがいたら止めてあげようとする心理というか。俺はそちら側の人間なんだ多分。取り立てている方に加担したほうが金銭的かつ短期的には得なのかもしれんがな。そこに建前的には良好な人間関係が長期的利益になるみたいな利得問題に転化した理由付けをするんだけど、ただ悪い人に成り切れていないだけなのかも知れないよな。

カルドセプトのようなゲームが種々の損得勘定の訓練になると思ってやっている所はある。ただ、過去においてこと格闘ゲームに関してムキになっている相手に100円玉を何度も入れさせたことはあるけど、トレカとか麻雀でも近頃はこちらが露骨に一方的に得をするような取引はしてはいけないという自戒の念もあるために何のための訓練かと言うと、取られないための防衛だとは思うのよね。そしてそれがいつでもバーチャルに楽しめることこそがゲーム機の価値だと思う。特はしないかもだけど、お金を使わずに博打的な快楽を得ることが出来るという。


🄫1999-2023 id:karmen