将棋というゲームに麻薬性を感じなくなった

iPhoneの原型であるiPodは携帯音楽プレイヤーだがPONというゲームが出来た。

日本のケータイはその頃にドラクエが遊べてワンセグ放送でテレビも見れる最新機種が出ていて、俺はそのN906iを持って合コンとかに行くと「写真撮りましょうよ!」「すごーい、顔認証とか付いてる!」とすごくモテたのだが、ITの仕事というよりは男から「いい携帯もってるからって」とすごく妬まれたりもした。だがまあ、自分の仕事がIT分野なので自分の手柄になって当然であるみたいな考え方をしていた。

その後にいちど仕事を離れお金のない時にアップル社が日本の携帯をブランディングしてiPhoneを発売して、ちょうど買えない時期で自分のケータイは旧型とみなされた。それでもガラケー型ではあるがYouTubeも見られるしGmailも使えたので使用感に問題はなかったが、外形が旧型なのは受けが悪かった。

ところで話を戻すとPONである。PONは通称「ブロック崩し」で日本では「アルカノイド」としての商品が有名である。関係無いようで関係のあることに今俺の読んでいる小説はアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」である。アクロイドは作中の登場人物の固有名詞として使われているが、アクロイドもアルカノイドも非常に惜しい。その実はアルカロイドをもじったものだろう。辞書を引かない読者のために書いておくと、アルカロイドとは植物性の麻薬物質ニコチン・カフェイン・モルヒネなどの化学的な総称である。

ここまで書くと分かる人もいるかと思うけど、PONの時代には現代のeスポーツ全盛とは対極に中国でゲームは麻薬であり国力が弱るとされて禁止であった。

さて、その麻薬であるとされるゲームだが、俺はこれをコンピュータゲーム特有だとは思わない。子供の頃に将棋をして、四六時中将棋について考えたり、友達を盤をはさんで熱中したり。また麻雀で大借金を作ったりする事からも、デジタルでないボードゲームにも人を夢中にさせる何らかがあることは間違いないと考えている。

ところが、コンピュータ将棋選手権の真っ只中に置いて、将棋にもはや中毒性を感じなくなってしまった自分がいることに気づいた。あんなに夢中になったことがあるのに。

いつからだろう、憧れていたものなのに自分で作ってみてそれは弱いけど、原理から言ってコンピュータのスペックが上がるほど強くなる理屈は理解出来たその時にソフトウェアの研究はスペックが頭打ちのときには効果があるが、ハードが進化している間はよりハイスペックにすることのほうが効率がよく、プログラムをバイナリ単位で煮詰めていく行為がある日に突然無意味化する自分の仕事や置かれた立場の脆さのようなものをどこかで感じて没頭できなくなった。

そうして、関係者から「最近もうすることが行き詰まってきてどうしたもんでしょうね」との問いに「持ち時間を短くすれば少なくともスペックの勝負は維持できるのでは」とアドバイスして、そのせいか別のチカラかはともかく、本当に持ち時間の短い大会になった。

じっくり考えるのが好きで、どこまでも盤の前で駒を眺めてうなっていたはずの俺が、ケータイの将棋ウォーズで3分切れの将棋をまるでアクションゲームのような感覚で遊んで行き詰まって嫌になる。

ちかごろケータイを何に使う?SNSにアニメの視聴に電子辞書や電卓の代わりに、まあ使いみちに困るではないけれど、ゲーム機としてはあまり見ていない。ゲームが自分の趣味や生き甲斐の代名詞だったことだってあるのにな。

それでも、時々は遊ぶ。ソシャゲーが大流行したこともあるけれど、音楽プレイヤーとしてのiPodにおまけとしてソリティアとPONが付いていてる、あのデザインは今見ても案外と正解だったのだろうなとふと懐かしい気持ちになるのでした。