もともとの自由平等とは身分の差があっても同様に裁かれる大岡裁きのこと

まあ俺らが生まれてくる以前の歴史の話だから分からないこともあるけど、昔は身分が違うということが絶対で身分の低いものがしたことは裁かれても身分の高いものを裁く人がいなかったんですよ。

それでフランス革命が起こって身分の違いがなくなったわけではなく、身分の違いはあれどして良いことと悪いことはみんな一緒で身分の低いものがしてはいけないとされることは身分の高い人もしては許されない。そうすることで身分の低い人が不当に裁かれないようにしましょう、そして身分の高い人でもいけないことはいけないとすることで泣き寝入りになる人を救いましょう。そんくらいのことなんです。今思うとそんくらいだけど、当時はすごいこと。

けどそれがフランスから本になってポルトガルに渡って日本に来て翻訳されて識者が広めるんですけど、庶民にしてみたら「お金持ちのお金を半分貧乏人がもらえる」みたいな考え方に変わってしまったんですよね。その間にロシア経由のマルクス主義とかも入るんですけど。

それで俺が子供の頃に他の子よりおもちゃをいっぱい買ってもらって、小学校で貧しい地域の子供と校区が混ざっていて右も左も分からない小学生時代に「お前んち金持ちやから俺にファミコンカセット貸して」みたいな話にいつの間にかなってしまった。

これが分かるまでに勉強以外にも中世の歴史のように身分の高いものが平然と悪いことが出来たのとは反対に、身分の低いものは知ってか知らずか悪いことをしてしまって隠しているということを見てしまったわけです。それ以前は悪いことなど自分は何もしていないと思っていたので、咎めようとしてしまったんですよね。けど、自覚がないし法律にも無いかも知れないけど、俺も人から自分がされたら「嫌だな」と思うことをしてしまっていると咎め返されるわけです。

その果てには、昨今のあおり運転の前後逆転つまり後ろから速く行けとあおるのが元々のあおり運転だけど、前をわざとゆっくり走って後ろがあおっていますと人を罪の状況に追い込むようなイタチごっこが始まって、そもそも法の裁きは何のためにある、法が平等でも身分が違うから出来ることと出来ないことがあって、境遇の差が所作の違いを生むことで一方的に悪くされている人は結局いるのではないかという落とし所になってきたわけです。

こうなると右も左もひっくり返って、先日では国会で蓮舫議員が発言した「オリンピックに外国人選手が来てコロナになって病棟が少ない時に日本人の患者は診てもらえるんですか」ということが「リベラルの民主であるにも関わらずナショナリストな右の発言である」と岸博幸さんにテレビのコメントで突かれていました。確かにそうなんだけど、いやそれ蓮舫さん知らないだけで問題であることには変わりないでしょと。病床足りないんだから診てもらえない人が出るのは明白で、それが日本人ならナショナリストで外国人ならリベラルでと切っているだけで、二者択一しか出来ないことを選ばせて余った方から切り込んでるだけでしょと。

しかし岸さんはキリッと発言してそこでTV番組はCMか何かで幕引きするわけだから不公平よね。俺はおもちゃを取られたことの口実が「公平」だったのでそうした人は恨んでるけど、公平それ自体は受け入れているつもりなのよね。今日の話はここまで。


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