今日のカプエス2(Aベガ・チャンコーハン・ケン)

敵役のキャラなのかもしれないな。憎まれても勝つほうが良い。アドラー心理学だ。

人気が出るというのと嫌われるというのは二者択一ではなく人気があることで妬み嫌われるという陰陽の二面性の多寡で、強く陽が出るほど陰も強く、嫌われない生き方は陰が弱い分だけ陽も弱い。これは等価に陰陽が出るではなく得する出方と損する出方があり、その陰陽を見極めるのが本人の意志であるなら気の持ちようとなりたい自分にかかっていると言える。

因果についても最近の俺の考え方は、因は無限に続く。哲学が因の追求であるとするとどこかで考えを決断して、果を目指して行動するのが多くの人間だろう。果の最大値は大統領や総理大臣にスポーツ選手か社長さんか、それとも社長は務めで食事や余暇を果とするか。因の追求をする学者にもノーベル賞のような果が社会から与えられるが、賞を果と取るか研究成果というようにそれそのものあるいはその知見に基づいた今後の社会の発展を成果とするか。

そうすると、俺は陰陽にしても成果にしても、鶏が産んだすぐの卵を食っているわけではなく、高級品を食っているわけでもなく、工場で菓子パンに包まれて加工された卵をよく食う。賞味期限が切れていなければ、腐っていて腹を壊すわけでなく、消化されて血肉となる。考える時は考えるが、雑多に用事や疲れや諦めで遮断され、断続的に考えて袋小路に入ることもある。その中で出来てきた諦観でもって、目的と方法とその苦楽を見極めて動く。

誰の企てかは分からないが、用意された幸福の枠の中に入ったような暮らしだと思っている。

若い頃は定型的に量産されて与えられるものと自分の欲しいものが合致せず、その小さなギャップを埋めるために自分が造り手になりたいとすら考えた。その少しのズレに対する許容を持てば苦労なく生きられるようにも思える。それでも無視しているのか許容できているつもりでしかないのか、何か言いたいことがあるから物書きをしているのだろう。

ブログに不満をぶちまけても何も始まらない。働く主婦のブロガーさんに言わせると「自分の機嫌は自分で直せ」らしいな。まだ甘えているのだろう。そして甘え続けるだろう。

昨晩の夕食はスーパーの惣菜だったが、3つ入りの餃子とか、ハーフサイズのニラレバが売り場に並べられていて、割高にも思えたが俺のようなおひとりさまへの計らいだと気付いて手に取った。そして缶ビールを開けた。

サティスファクション!ノノーノー!何にも不満はございません。


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