「だから」と「だけど」

論理学の落とし穴。論理というか真理はとても複雑で、人がその全てを知ることはできない。その中で論理的であることは考え方を正すひとつの方法である。そのこと自体に異論はないが、論理的とは「AだからBである」と書くいうハウツーは短絡思考への落とし穴だ。

昨日は「中学の時に親から小遣いをもらって幻想小説を買ったら勉強せずにこんなものを読んでいるのかと怒られた。だから悪い親だと思った」「怒られただから嫌いになった」こう書いた。もちろん、中学生だから反抗期で、だから怒られたことを素直に聞けず反発した。後になって振り返ると「だから」ではなく無数の「だけど良いお父さんだよ」に囲まれている。

「だけど良いお父さんだよ」から子供の頃の俺が出した結論は「ウチは商売だから仕事として

お父さんの外面は良いが、そのせいでストレスを溜めている。だから俺に怒ることでストレスを発散して、自分がその緩衝材のような仕事をさせられて怒られる辛い日々を我慢している」こうだった。

では正しい論理はどうだろう。

今はこうだ。お父さんは勉強が足りなかったせいで工業の仕事につき、お役所の人の言いなりとなって頭を下げていつも辛い仕事をしている。その辛身を味わっているからこそ、息子には勉強をして虚構的ではあるが「良い身分」もしくは「自分の好きなこと」をしてほしい。そのためには親父の思う勉強があって、本を買うお金を渡したら自分で本を買って勉強するだろうと思った。だが、息子が買ってきて読んでいる幻想小説というのは親父からすると享楽的で、想像している勉強とは違う。だからお小遣いをあげたのに騙されたと思った、裏切られたと思った、正さないと失敗すると思った、その中で言葉で正すよい方法が分からない。だから頭ごなしに怒った。

これらの事案は俺が本を買ってきて部屋で読んで親父がそれを見つけて怒ったということから、論理学で見つけたことではなく、している仕事への想像やヒアリングにありうる可能性を何度も探索して30年をかけて出た答えになる。

親父は怖い人で、だから腫れ物に触るように家族は接してきた。だが、娘である姉は上手に甘えて欲しいものを何でも買ってもらえていた。俺はそれは姉が女で俺が男だからだと考えた。

果たしてそれらの「だから」はすべて正しいだろうか。俺は今までの考えの全ての「だから」が間違っているのではないかと思い始めた。だけど、人の言う「だけど」は「だから」で固められた間違った論理を否定しているわけだから、その点に於いては正しい。

ただ「だけど」と否定したことは正しくても、それに続くその人の「だから」もその人の視点であって、すり合わせて正しい「だから」を即座に導くわけでもない。だから「だから」で文章を固めていくことは真理を求めていくための初歩であり、それはどんな人であれものを考えるということには論理性はあるわけで、口癖とか書き方に置いてそう習慣づけることが大切なのは認める。

現代はAIの時代であり、論理回路は全てNANDで書けるようだ。その中で「だから」を示す論理記号というのは無く、あるとすれば等号イコールくらいだろう。AだからBは論理的にはA=Bなのだ。もうひとつ考え方がある。それは叙述だ。AをしてBをする。

俺はどこか考え方がファミコン的で、物理的に自然にそうなる以外の心因については理解しかねる。ひとつの「だから」についての外延を皆でデバッグする。俺はやさしい親の元に生まれ育ッタように思えるように親子含めてさらにその周りの人が助けてくれたのだろう。

なんとも迷惑な話ではないか。それが即ち愛だと俺は思う。


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